戦時下の「雑誌王国」を盤石とした、講談社と陸軍の危うい蜜月

大衆は神である【70】
魚住 昭 プロフィール

皇国文化協会

そういう作家たちの不安と講談社・陸軍の思惑がピッタリ重なって動き出したのが、次に登場する皇国文化協会である。講談社と軍との連絡係だった竹中保一の録音速記のつづきをお読みいただきたい。

【13 第二提案の実現】
次に皇国文化協会の設立とその構成及び活動状況と効果についてお話しいたしましょう。
この皇国文化協会はやはり鈴木中佐の発案構想であり、時局下各方面の言論統制や指導を直接表立って軍部がやれないから、民間の出版社にそれを作らせ運営してゆくという方策であります。
それを作るのに今のところ講談社がいちばん適任であり、最も有力であるというので本社に提案をしてきました。
昭和十七年一月三十一日、鈴木中佐に私が呼ばれ、この話がありました。趣旨としては編集者と執筆者と相提携して一定の思想を持ち、同じ目的に向かって進んでゆかなければ、立派なよい出版をしてゆけない。これによってこの難局を切り抜け、大戦争を勝利に導きたい。
理想的にこれを持ってゆくためには相当の年月がかかるが、でき上がれば国家のためにも権威ある機関となるので、講談社のような大出版社と当局が結合して、そこで除名された寄稿家は生活ができなくなるように、死活問題と結びつけなければ……というような話がありました。
そこで第一案として、講談社出版報国協会、あるいは講談社出版奉公協会と名づけて財団法人にする。これだと、当時二十万円以下ならばたやすくできるからというのです。
第二案は、文化国防協会と銘打って、組織の内容は大衆分科会、評論分科会、婦人分科会、児童分科会、画家分科会の五つに分かれ、順次会合を開いて、講演を聞くなり議論や懇談をかわすなりするという提示でした。

陸軍と講談社で相携えて、寄稿家の生殺与奪の権を握ろう。要するに鈴木はそう言ったのである。

 

みな喜んだ!?

これに講談社はどう応え、また寄稿家はどう反応したか。

なんと、みな大乗り気だったのである。

【14 積極的に乗り出す】
本社としてもこういう会合を持つことに反対ではない、むしろ乗り気のようでした。というのは本社としても各寄稿家が戦争の深刻になるにつれ、散り散りになって連絡がつかない。
また戦況をともに聞く機会がないところから、この会合によって思想を統一し、大いに雑誌に活躍してもらいたい。これが当時としては非常に重大なことでありました。これは先の顧問制とちがいまして本社としてはすぐ全面的に賛成したわけであります。
一方、寄稿家の方でもこの会に招かれることは、まだ自分たちの飯の食い上げにならない、作家としての生命がつづいておるという安心感から非常に光栄と考え、またほかでは聞かれない話が聞けるとか、また直接軍部からの指導によって、今後の進む道や執筆の方向が得られるというので大変喜ばれ、みんな喜んで出席しました。
いよいよ始めてみると、非常に出席率がよく、一会合でも五、六十人を下らないほど盛大でしたし、「次の会合はいつですか」と期待されたほどでした。議論も大変活発に行われ、また得ることも非常に多かった。作家連中のみならず本社としてもその作家を握っておると、その作家が新しい統一された思想で執筆してくれるというので両方ともよかったのであります。

「飯の食い上げにならない」「非常に光栄」「次の会合はいつですか」とは、身もふたもない証言と言わねばなるまい。