戦時下の「雑誌王国」を盤石とした、講談社と陸軍の危うい蜜月

大衆は神である【70】
魚住 昭 プロフィール

社は富み、多くの作家は窮す

省一が入社したころ、前年末に発足した日本出版文化協会(文協)による単行本の企画審査や用紙割り当てが本格的に始動した。文協は昭和14年7月から昭和15年の6月までの1年間に使った紙のポンド数を基準に各出版社に用紙を割り当てた。

講談社はちょうどその時期に吉川英治の人気作『宮本武蔵』の普及版全8巻を各17〜18万部出したり、少年講談シリーズ四十数冊を1万部ずつ重版したりしていたので、紙の割当量が非常に大きかった。

 

それをそのとき使い切ってしまわないと割当量を減らされるから重版を盛んに行った。新刊は文協の承認が要るので、時局向きの本をどんどん許可をとって出版していった。割り当ての基準量が多い上に特配(文協から特別に用紙割り当てを受けること)をとる企画も多かったので昭和16年、17年と未曾有の好況がつづいた。

出版部長だった天田幸男の回想。

〈特配を盛んにとっていきますから、どうしても時局物が多くなる。これはいくら刷らせるかということまで(文協で)決めますから、それ以上使えないわけです。自分の社が持っている基本量だけはどう使ってもいいのですが、特配用紙は文協できめた本にしか使えない。だから出版物のうちにも重版のできるものとできないものとがはっきり出てきた。ですから、これまで講談社からたくさん本を出していた著者でも、時局が進んでくると、今までのように重版できない。

はなはだしい例になりますと、(『あゝ玉杯に花うけて』などで知られる)佐藤紅緑(こうろく)さんあたりには、そのころ年々三万円ぐらいの印税を差し上げられたのですが、十六年でしたか、一ヵ年たった三百円しか印税がなかった。紅緑さんから私のところに長い手紙が来て「老生にしてなおかくの如し、他の文士たちはどうして生活していくだろうか、よくよく考えられたい」といってきましたが、どうにもならない。これは非常に苦しかった。自分(の社)だけは時局に乗ってやっていても、著者先生から「何だ、貴様は!」とこられると二の句が継げない〉

時局便乗型の売れっ子を除いて、戦時中の作家たちの生活は苦しかった。彼や彼女らにとっていちばん怖いのは、世の中から忘れ去られてしまうことである。