戦時下の「雑誌王国」を盤石とした、講談社と陸軍の危うい蜜月

大衆は神である【70】

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

軍部の言論統制が強まりゆく中、のちに4代目社長に就任する高木省一(野間省一)が野間家の婿養子となった。当局による用紙割り当ても始まり、いよいよ出版メディアへの締め付けが本格化する。だが、講談社は空前の好況に沸いていた──その裏にあったのは、陸軍との「一体化」だった。

第七章 紙の戦争──省一の講談社入り⑵

養子になったからといって

5月26日の結婚式の、省一と登喜子は国内の名所をまわる新婚旅行に出かけた。野間家の別荘がある伊東を経由して愛知県の温泉地・蒲郡や岐阜県の高山などを訪ね、最後は省一の出身地である静岡、清水に寄った。

当初は1週間の予定だった。しかし、1週間をすぎて登喜子が「帰りましょう」と言っても、省一は「いいよ、いいよ」と言って、旅行をつづけ、東京に帰ったのは2週間後だった。

登喜子は厳しい左衛のことが気になったにちがいなく、旅行に出かけた翌日には伊東から左衛に電話しており、その後も旅先から電話している。

新婚旅行が長くなったことに、登喜子だけでなく、省一の母・ますも気をもんだ。式から9日後の6月4日、三吉の妻・辰子らとともに、ますは目白の野間邸を訪ねたが、省一夫婦はまだ帰っていなかった。

6月10日の正午、省一から帰る旨の電報が左衛のところに入り、左衛、妹の操、姪の喜美子の3人が午後3時38分東京駅着の省一たちを迎えに行った。

省一と登喜子は東京駅から左衛たちと一緒に帰らず、清治と恒の墓にお参りして、少し遅れて帰宅した。新婚旅行の日程を勝手に延ばしたことといい、養子になったからといってあなたの言うままに動くわけではありませんよと、省一は左衛に釘を刺しておきたかったのだろう。

 

左衛は一枚上手

7月11日、講談社の6階講堂で開かれた社員総会で、省一は高木専務から社員一同に紹介され、壇上から謙譲な態度で挨拶を兼ねた所懐の一端を披露したと総会記録にある(註1)。

このときの挨拶を省一は原稿に書き、このように話そうと思う、と左衛の前で読んだら、その中に、「初代野間清治は〜」というのが何回かあったのを、左衛から、初代がどうした、こうしたということは言わないほうがよいと言われて削ったという。

左衛がそう言った理由は明らかだろう。清治は没後3年たっても社員たちにとって神聖で、しかも身近な存在であり続けている。よそ者の省一が清治の話をすれば、何も知らないくせにと社員たちの反発を招くだけである。さすがに左衛はそうした社内の空気を読んでいたのだろう。

それに、もしかしたら彼女は省一にこう言いたかったのかもしれない。あなたに求められているのは清治や恒のコピーになることではない。新たな講談社をつくることだと……。

7月19日の株主総会で省一は取締役に就任し、その日の取締役会で奈良静馬(なら・しずま)とともに常務取締役に選任された。入社した当座、省一は総務局、編集局、業務局、経理局などをまわって局内の各課で出版の仕事を勉強した。たとえば業務局では雑誌や書籍の原価計算の仕方などを社員から教わっている(註2)。