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日本独立のために! ゼロから「国産ビール」を作った情熱男の物語

飲み会で話せる「サッポロビール事始」
飲み会の主役といえば、みんな大好き「ビール」! 仕事終わり、疲れた体にしみわたるあの泡、キレ、苦味、コク……。いまや国民的飲料となったビールですが、明治時代の「ある選択」がなかったら国産ビールは存在していなかったのかもしれません。
今回ご紹介するのは、明治時代に「ビール国産化」のために駆け回ったある若い男の物語です。
(「アオガクプラス」より転載。完全版の元記事はこちら

はじまりはロシアから北海道を守るため

明治新政府の下、北海道は開拓使によって開発されました。国家財政の5パーセントを10年にわたって投入するという壮大なプロジェクトです。

しかし維新直後の激動期に、なぜ北海道開拓を急ぐ必要があったのでしょう。それは日本を守るためでした。ロシアが北海道を狙っていたのです。早急に産業を興して人口を増やさないと占領される危険があります。そこで明治2(1869)年に開拓使が設立されたのです。

 

その中心を担ったのは、後に第2代内閣総理大臣となる黒田清隆でした。彼は北海道に近代産業を興すためにアメリカから農務長官ホーレス・ケプロンを招聘し、その指導の下で30業種にわたって40もの工場を建てます。日本の近代化を北海道開拓で牽引する、という大きな夢がスタートしました。

黒田清隆 Photo by National Diet Library
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なかでも黒田の期待を背負ったのがビール事業です。北海道では大麦が育ちます。ホップの自生も発見され、ビール醸造に向いた寒冷な気候もありました。しかも完成したビールは函館で外国船に売れます。大地の恵みから貴重な外貨を獲得できるのです。

もっと大きな狙いもありました。当時、アジア諸国は西洋文明に対応できず、次々と欧米列強の植民地にされていました。油断すれば日本も同じ運命です。だから必死に文明開化を目指したのです。

外交の場に欠かせないビールやワインも、文明国なら自国産が常識です。つまり国産ビールを造ることは、文明国だとアピールするための証拠であり、植民地化に対する防衛策でもあったのです。

大麦栽培は現在の青山大学で

黒田の下でビール事業を統括したのは、イギリス留学経験を持つ33歳の村橋久成でした。醸造を担当したのは、日本人として初めて本場ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛。まだ28歳です。この若い2人が日本人初のビール工場建設に挑みました。

2人とも海外経験がありますから、欧米列強の脅威を肌で感じていました。だからこそ日本の独立を守るため、ビールの国産化に情熱を傾けたのです。

中川清兵衛
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開拓使は東京官園という農業試験場を持っていました。そこではビール大麦の試作が明治4(1871)年から行われています。黒田、村橋、中川の3人は、官園の畑で成長するビール大麦を眼前にして、北海道開拓使が果たすべき夢を熱く語り合ったことでしょう。

この大麦を立派に育てて、いつか素晴らしいビールを造って、欧米人たちの度肝を抜いてやろう。美味しいビールだ、さすが日本は文明国だ、と言わせてみせるぞ──。