Photo by gettyimages

令和歌舞伎は群雄割拠だ! 海老蔵世代がいよいよ跳躍する

團十郎襲名で劇界地図はどう変わる?

平成最後の数ヵ月、歌舞伎座は空席が目立った――という話を書いたのは、3月の終わりだった(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63777)。そこに書いたように、4月はガラガラだったが、令和になった5月以降は持ち直している。

團菊祭での、次の團十郎と菊五郎

5月は團菊祭。例年、この月は満席率が高い。人気のある海老蔵が出るし、今年は菊之助の長男の丑之助襲名披露公演もあったので、ほぼ埋まっていた。

丑之助は令和最初の襲名である。

海老蔵時代最後の團菊祭にあたり、海老蔵が選んだのは、家の藝である歌舞伎十八番のひとつ、『勧進帳』。多分、来年の襲名披露公演でもやると思うが、けじめをつけたかったのだろう。

海老蔵が『勧進帳』の弁慶を初めて演じたのは、新之助時代の1999年1月の浅草歌舞伎だった。富樫は松緑(当時、辰之助)、義経は菊之助だった。

この三人の父たちも若い頃は同じ名前で、みな「之助」がつくので、「三之助」と呼ばれていた。そこで彼らは「平成の三之助」「新三之助」などと呼ばれ、1996年から99年まで、正月の浅草歌舞伎に出て「家の藝」を初役で演じ、将来に備えていた。

1999年は平成の三之助が浅草を卒業する年で、いわば卒業試験として、海老蔵は弁慶を、菊之助は『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子を、松緑は『寺子屋』の松王丸をつとめた。

それから20年が過ぎて、海老蔵としての最後の團菊祭に、海老蔵は1999年1月と同じ配役での『勧進帳』を希望し、菊之助、松緑もそれに応じたのである。

そして同じように菊之助も、この月、歌舞伎座では初めての『京鹿子娘道成寺』をつとめた。これまで、玉三郎との『京鹿子娘二人道成寺』には出ていたし、他の劇場ではひとりで踊っていたが、歌舞伎座でひとりで『京鹿子娘道成寺』を踊るのは初めてだった。

時代は令和となっていたが、2人は今年の團菊祭で、ひとつの時代にピリオドを打ち、次の段階へ向かおうとしていた。

平成歌舞伎は、彼らにとっては助走期間、準備期間に過ぎない。

これからが、彼らの時代なのだ。

 

平成歌舞伎を代表するのは?

では、平成歌舞伎とは、誰の時代だったのか。

「ひとつの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである」――三島由紀夫は中村歌右衛門についての小論にこう書いた。

たしかに、昭和戦後は、歌右衛門が時代を代表する俳優だった。そして歌右衛門は昭和が終わり平成になっても、劇界に君臨していた。

歌右衛門が亡くなったのは平成13年にあたる2001年。つまり平成の三分の一は、まだ歌右衛門時代だったのである。

歌右衛門が持っていた興行における「女形のトップ」という座は、玉三郎が継いだ。

玉三郎は自分の力でそれを得た。しかし、「劇界の女帝」というポジションには、玉三郎は興味を示さなかった。

彼だけでない。誰もそんな面倒なポジションには就こうとしなかった。

かくして劇界は菊五郎・白鸚・仁左衛門・吉右衛門・團十郎らによる集団指導体制となり、團十郎が亡くなった後も、そのゆるい体制で、改元を迎えた。

誰かひとりが代表することはなかったのだ。

平成の半ば以降は、2004年に海老蔵襲名、2005年に勘三郎襲名があり、2009年から10年に歌舞伎座さよなら公演、2013年に歌舞伎座再開場というのが、大きな出来事だった。

その間の、2012年12月に勘三郎、13年2月に團十郎が相次いで亡くなった。

勘三郎が存命であれば、平成後半から現在にいたる時代を代表する俳優になったかどうか。人気、集客力では抜群だったが、この俳優も劇界に君臨するタイプではなかった。といって、大幹部のひとりとして列座するだけは満足しなかったようにも思うが、考えてもしょうがない。

そして、海老蔵=13代目團十郎の時代になる。