1966年から1976年の期間、文化大革命によって中国は混乱の極に達した。ユン・ チアン、『ワイルド・スワン』(2007年、講談社文庫)を読むと、こんなことが実際にありうるのかと、言葉を失う。
事態がここまで至れば、どんな国民でも目覚めるだろう。
毛沢東の死後の1977年7月に、鄧小平が復権し、文化大革命による混乱を収拾して、政策の大転換を図った。
1978年12月の第11全会(中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議)において、「改革開放、現代化路線」が正式に採択された。
これは、つぎの3つの特徴を持っていた。このいずれにおいても、鄧小平の成長戦略は、きわめて巧妙なものだった。
第1に、共産党独裁政権が経済の市場化を先導した。言うまでもないことだが、市場経済と共産主義は矛盾する。しかし、「それでもよい」というのが、鄧小平の考えだ。
すでに1962年に、当時共産党総書記だった鄧小平は、「白猫でも黄猫でも、ネズミを捕る猫がよい猫だ」と言っている(一般には、「白猫・黒猫論」として知られている)。その考えがここで現実の政策になった。
第2に、輸入代替政策ではなく、輸出産業育成が行なわれた。
それまでの開発途上国は、経済成長のため、輸入に頼っていた財を国内で生産することを目的とした。しかし、輸入品に比べてコストが高くなり、結局は経済発展が阻害された。こうして失敗した国の典型がインドだ。
中国が行なったことは、これと正反対だ。国内需要とはあまり関係のない分野で輸出産業を興し、それをテコにして経済発展を行なおうとした。
第3に、最初から国全体として市場化を行なったわけではなく、経済特区を設定し、そこで例外的な経済活動を行なった。
1979年に深圳、珠海、汕頭(スワトウ)、厦門(アモイ)に経済特区が設けられ、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区が設置された。ここに華僑や欧米資本などの外資を積極的に誘致した。
その結果、これらの地域では工業化が進行し、経済力が飛躍的に伸びた。そして、沿岸部の都市と内陸部の農村との間で、大きな経済格差が生じた。
これについても「それでよい」というのが、鄧小平の「先富論」だ。「先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい」という考えだ。