内務省推薦「防空絵とき」1942年11月刊

沖縄が燃えた「10・10空襲」政府は「現場の警告」を無視していた

事実を隠すと何が起きるか…?

1944年10月10日、沖縄は空襲を受けた。初めての無差別・大規模空襲に対して日本政府はどう対応したか。そこには、現地軍からの警告を無視して、沖縄県民に犠牲をもたらした驚くべき実態があった。政府が事実を隠すことが何をもたらすか、今の時代と重ねて考えたい。

 

初めての無差別・大規模空襲

1944年(昭和19年)10月10日、沖縄県内各地が空襲で壊滅的被害を受けた。その日付から「10・10空襲」と呼ばれる。

この日の早朝から夕刻まで、空母から出撃した米軍機のべ約1400機による波状攻撃が9時間も続いた。爆弾、焼夷弾、銃弾の併用で軍事施設は破壊され、都市は焼き尽くされた。

空襲後の那覇市(沖縄県公文書館所蔵)

那覇市内では「燃えるべきもの全てが火を発しているようだった」と伝えられる(沖縄県史第8巻「沖縄戦通史」)。上空は黒煙に覆われて暗闇になり、軍施設や工場には何本もの火柱が立ち、港湾では艦船が火を噴いて傾き沈没した。

那覇市の市街地の9割が消失し、県全体の死者数は軍民あわせて約700人、家屋の全焼は約14,700戸にのぼった。

4ヵ月前の6月16日にも北九州市で死者300人以上の大空襲があったが、主に製鉄所や兵器工場を狙ったものであり、都市全域を焼け野原にしなかった。沖縄の10・10空襲は、日本で初めて住民を標的にした無差別かつ大規模な空襲であったといえる。