「ヒト」の評価は「花」にとって驚くほどお門違い

サボっていたら花にはなれない、花になれるよう変わりたいと思うことが正しい、というメッセージをルミネのCMは発信した。イワナガヒメはサボっていたから醜いと言われ、花になれなかったから拒絶されたのだろうか。というか、そもそも花にならなければいけないのだろうか。そして花は、食卓や玄関に飾られて初めて価値が完成するのだろうか。

多くの植物のメインターゲットは虫である。虫を繁殖に利用するべく用意した形態が、まったく偶然に、ヒトの目にポジティブに映った。花が気分を明るくするとか、目を楽しませるとか、がんばって健気に咲いてくれているというヒトの評価は、花という生命体にとって驚くほどお門違いだ。たとえば犬がある日突然喋りだし、「いつも私のために黒く長い髪でいてくれてありがとう」と言い出したら驚くのと同じように。

-AD-

花がヒトのためにうつくしく咲いていると考えるのがお門違いなら、石はヒトの目にうつくしくないから価値が低いという発想もお門違いだ。イワナガヒメは盤石さを司る鉱物の象徴としてニニギのもとへ出向いたにもかかわらず、花として来たことにされていた。これはオオヤマツミ(父)とニニギ(夫)の怠慢である。結婚相手が増えた理由についてはオオヤマツミは事前に報連相しておくべきだったし、ニニギは理由をたずねるべきだった(面と向かってプロポーズされたコノハナノサクヤヒメはともかくとして、イワナガヒメの自由意思が存在していたのかも気になっている)。

一個人の生活レベルで考えると好みの顔の人物と一緒になりたいという気持ちは悪いものではないが、「未来永劫の繁栄」「顔が好きかどうか」では次元が違いすぎる。「未来永劫の繁栄」を重んじたオオヤマツミと「顔が好きかどうか」を重んじたニニギノミコトのすれ違いによって、イワナガヒメは少しも直面する必要のない侮蔑にさらされている。そんな事情とはまったく関係なく、花も石も地球上に存在し続けているというのに