「鉄道員の息子」が講談社創業社一族に「婿入り」をした理由

大衆は神である(69)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦前、軍部の言論統制の中、講談社は暗中模索の戦いを強いられていた。その頃、のちに「講談社の祖」と呼ばれる一人の男が講談社に入ることとなる。その男、高木省一はどのような人物で、何を機として野間家に入ることになったのだろうか――。

連載第1回 :「極秘資料を発見!日本の出版のあけぼのと、野間家の人々」

 

第七章 紙の戦争──省一の講談社入り(1)

鉄道員の息子

後に”講談社中興の祖”と呼ばれることになる高木省一(たかぎしょういち)は明治44年(1911)4月、磯吉(いそきち)・ますの3男として静岡市に生まれた。磯吉は鉄道員で、省一が学齢期を迎えたとき浜松駅に勤務していた。 

住まいの官舎からさほど離れていないところに小学校があった。就学前の省一はよくこの小学校に行き、先生に見つからないよう教室の外にしゃがんで授業を聴き、地面に字を書いていたという。 

授業が終わると家に走って帰り、授業が始まると、また教室の窓の下にしゃがんで授業を聴いていた。それで就学したときにはすっかり1年生の教科を修得していたといわれている。 

頭のいい子という評判がたち、あちこちから医者にしたいから養子にほしいといったような話がいろいろあったが、磯吉はそれらをみな断った註①。 

大正13年(1924)4月、省一は県立静岡中学に入り、昭和3年(1928)に4年修了(通常は5年修了だが優秀な者は1年短縮できた)で静岡高等学校の文科甲類(第1外国語が英語)に進んだ。 

静高での成績はひどく優秀だったらしい。『野間省一伝』(講談社刊)はクラス担任だった佐々木順三(ささきじゅんぞう)教授(英文学者、神学者。戦後に立教大学総長。作家・佐々木邦[くに]の弟)の次のような証言を伝えている。  

〈東京から来た生徒は概してよく出来たし、華々しく派手に活躍していたが、省一はいつも黙っていて、派手なところが少しもなく、滅茶苦茶なことや突飛なこともせず、おっとりとして控え目だった、自薦や他薦がなくても、自然とクラス全体が無条件で尊敬していたし、何をやらせても完全に出来て、私が教えた数多い生徒の中にも、省一ほどよく出来た生徒は他にいない〉  

昭和6年(1931)4月、省一は東京帝大に入り、法学部法律学科に籍を置いた。  

シンパ学生? 

薄給の鉄道員の息子である省一が旧制高校─帝大のエリートコースを歩むことができたのは、静岡県を代表する物流企業「鈴与(すずよ)」の援助があったからである。 

省一は静高1年のとき、「鈴与」の御曹司である鈴木清司(当時静中3年)の家庭教師になった。静中の英語教師の推薦だった。やがて省一は、清司の祖母・たつの隠居所に清司ともども住み込むようになった。帝大進学後も「鈴与」の主人が上京したとき使う渋谷区金王町(こんのうちょう。現在の渋谷区渋谷2〜3丁目の一部)の家に、青山学院に入った清司と同居した時期があった。 

清司の祖母・たつは孫の清司らと同じように省一を可愛がったらしい。高校時代の省一はたつの隠居所で豊かな家庭の子供と同じ生活を送った。 

当時の卵は安くなく、やや贅沢な食品であったにもかかわらず、たつの隠居所の朝食には生卵が出た。省一はその生卵の割り方がわからず、初めの日、粗相をしてしまった。母のますに、生卵など食べさせてくれなかったから粗相したのだと言うので、ますはつらい思いをしたと話していたという註②。 

静高─帝大時代の省一で見逃せないのは社会主義運動とのかかわりである。静高は全国の高等学校でも左翼活動の盛んなところとして知られ、省一の友人たちにもマルクスボーイがいた。省一自身は「目立つような運動はしてはいなかったものの、通常社研と略称される社会科学研究会のようなところには入っていたようである」と『野間省一伝』は伝えている。 

省一は大学時代、左翼運動で本富士署に検挙された友人の差し入れに行ったり、セツルメント(貧民救済施設)の世話をしていたこともあった。 

それに、「実家が裕福でない高木がもしも警察につかまれば再起できないだろうから、どんなことがあっても高木のことは隠そう」と仲間たちが言い合っていたという話も残っている。 これらのことからイメージできるのは、本格的な活動家ではないが、左翼運動に同情的なシンパ学生としての省一の姿である。忠君愛国主義の清治とは思想的な立ち位置がかなりちがう。