鄭和大航海の壮大さ
ヨーロッパ諸国による大航海に先立つ15世紀初頭に、明の鄭和が率いる船団が大航海を行ない、アフリカ大陸東岸に到達した。
この航海については、すでに、2018年12月6日公開の「世界史の視点でみると分かる、中国・アリババ台頭の『大変革』の意味」で述べた。
ただし重要なことであり、またその時に書いたことの修正もあるので、繰り返して述べたい。
これは、1405年、明の第3代皇帝、永楽帝(1360~1424年。在位1402~24年)の命によって開始された遠洋航海だ。第1次航海はセイロン、カリカットまでだったが、その後、数次の航海が行われ、アフリカ東海岸に達した。第6次と第7次遠征では、ザンジバルにまで達した。これは、タンザニアの東であり、南半球である。
「宝船艦隊」と呼ばれた鄭和の船団は、コロンブスやマゼランなどのヨーロッパの艦隊とは比較にならぬほど大規模で立派なものだった。
コロンブスの第1回航海は、3隻の帆船と約90人(120人との説も)の乗組員で行なわれた。最大船であるサンタ・マリア号の全長は 24 mだった。
それに対して、1405年に南京から最初の航海に出発したときの鄭和の船団は317隻のジャンクで構成され、一隻には平均90人の船員が乗りこんでいた。船団全体では、3万~4万の人員がいた。
6~8本のマストをもつ商船には絹や磁器、漆器などが大量に積みこまれていた。9本のマストをもち、全長が約130m、全幅が約50mの船もあった。この幅は、コロンブスのサンタ・マリア号の全長の2倍以上だ。
鄭和艦隊の巨大な船に比べれば、コロンブスやマゼランの船はおもちゃのようだったのである。