蛮勇か?敵地に着陸して焼き討ち…日本海軍一の名物男「波瀾の人生」

その活躍は絵本の題材にもなった
神立 尚紀 プロフィール

娘と愛妻を立て続けに失っても

羽切さんは、筑波海軍航空隊教員を経て、ふたたび横須賀海軍航空隊で各種飛行実験にあたり、昭和18(1943)年7月、ラバウルの第二〇四海軍航空隊に転勤。ソロモン諸島上空の激戦に参加した。

 

「8機を率いた最初の出撃で、敵上陸用舟艇を銃撃し、帰還して初めて、2機いなくなっていることに気づいた。2機がいつやられたかもわからず、改めてソロモンの戦いの激しさを思い知らされました。支那事変とは戦争の質が全然違っていましたね」

昭和18年9月、ブーゲンビル島ブイン基地。二〇四空の集合写真におさまった羽切飛曹長(当時30歳)

そして約2ヵ月、二〇四空の要として戦い続けたが、9月23日、ブーゲンビル島ブイン基地上空の邀撃戦で被弾、重傷を負ってしまう。この日、早朝から空襲警報で発進した零戦27機が、ブイン西方で敵戦闘機約120機と激突。たちまち激しい空戦が繰り広げられた。羽切さんは2機を撃墜して3機めを攻撃しようとした瞬間、ものすごい衝撃を感じた。

「一瞬、操縦席が真っ暗になり、竜巻に放り込まれたようでした。機は海面めがけて墜落してゆく。操縦桿をいくら引き起こしても機首が起きない。

とっさに操縦桿に目を向けて驚きました。一生懸命引き起こしているはずの操縦桿に右腕はなく、勝手に座席の右下で汽車のピストンのように激しく上下している。『やられた!右腕だ!』……やっと気づいて、私は左手で右手を持ち上げると、両手で操縦桿をぐっと引き起こすと同時に、エンジンのスイッチを切りました」

右肩の後方からグラマンF4Fの12.7ミリ機銃弾が貫通、鎖骨、肩甲骨を粉砕する重傷で、二度と操縦桿は握れない、という軍医の診断だった。羽切さんは内地に送還されることになり、10月10日、病院船「高砂丸」でラバウルをあとにした。

しかし、内地に帰った羽切さんは、驚異的な精神力でリハビリに励み、肩より上には絶対に上がらないと言われていた右腕を、棒を使って上げる訓練を毎日何千回となく繰り返した。そして、ついにはふたたび操縦桿を握れるまでに回復し、わずか半年後の昭和19(1944)年3月には三たび横空に戻って大空に復帰した。

羽切さんの右肩には、機銃弾が貫通したすさまじい銃創が残っていた。平成8年、羽切さん82歳の頃(撮影/神立尚紀)

ラバウルから送還された直後の昭和18(1943)年11月18日に長女・由美子さんが病死、羽切さんは、幼い娘が自分の身代わりになったような気がしてならなかったと振り返る。昭和20(1945)年3月2日には妻・文子さんが原因不明の熱病により、26歳の若さで急逝。プライベートでは重ねての不幸に見舞われている。文子さんが亡くなったときには、空襲の激化で車の手配がつかず、居を構えていた金沢八景の借家から火葬場がある汐入まで、折からの雪が降り積もった7キロの道のりを自分でリヤカーを引き、遺体を運んだ。

だが、羽切さんは航空隊ではそんなそぶりを微塵も見せずに戦い続けた。当時、横空で一緒にいた隊員たちは、戦後数十年経つまで、誰もそのことを知らなかったという。

羽切さんは、なおも関東上空に押し寄せる敵機を迎え撃ち、昭和20(1945)年2月16日には新鋭機「紫電改」に搭乗し、三浦半島上空でグラマンF6F戦闘機1機を撃墜。4月12日、ボーイングB-29の大編隊を邀撃したさい、江ノ島上空で敵機の防禦砲火にふたたび被弾、右膝を砕かれる重傷を負い、入院中に終戦を迎えた。

「政治家であるより戦闘機パイロットだった」

戦後は郷里で弟たちとトラック会社を興し、富士トラック株式会社を経営、静岡県トラック協会会長を8年、さらに富士市議会議員を3期12年、静岡県議会議員を4期16年にわたって務めた。戦争で重傷を負ったことで、役場から傷痍軍人恩給受給の申請を勧めてきたこともあったが、羽切さんは、この通り、腕も脚も動くから恩給はいりません、と断っている。

私が羽切さんと出会ったのは、すでに政治家を引退していた平成7(1995)年のことである。たった一年半のお付き合いながら、数度におよぶ長時間のインタビューに快く応えてくれ、疑問点を質問すれば、豪放磊落な戦時中のエピソードから受ける印象とは裏腹に、テストパイロットらしい几帳面な字と文面で、丁重な手紙が届いた。

「ぼくは思い返してみるとね、戦後30何年というもの政治に没頭して、戦争のことを考えることはほとんどなかった。もったいないことをしたと思っています。

政治家として28年、海軍は13年でそのうち戦闘機に乗っていたのが約10年。しかしその10年がね、言うに言えない充実感があった。欲も得もなく純粋に一生懸命に生きて、いつまで経っても忘れられない思い出がたくさんあります。人生振り返って、ぼくは、やはり政治家であるより戦闘機パイロットだった。そのことの方に誇りを感じています」

羽切さんは、私が出会ったときにはすでに、癌におかされていた。家族には前立腺癌で手遅れ、と宣告されていたが、本人には告知されていなかったという。平成9(1997)年1月15日、死去。享年83。「男の中の男」と呼ぶにふさわしい生涯だった。

――零戦のデビュー戦、それに続く羽切さんらの敵中着陸から79年の歳月が過ぎた。

試みに昭和15(1940)年の79年前は、とみると、文久元(1861)年。その翌年の文久2年、武蔵国橘樹郡生麦村で、島津久光の行列を横切ったイギリス人たちを、供回りの薩摩藩士たちが殺傷した「生麦事件」が起きている(旧暦8月21日、太陽暦で9月14日)。つまり、零戦のデビュー戦は、いまや当時の人が生麦事件を振り返るよりも昔の出来事となってしまったのだ。

その間、日本の敗戦をはさんで、元号も昭和から平成を経て令和となり、人の価値観もすっかり変わった。だが、零戦初空戦に参加したパイロットの一人、三上一禧さんが現在も102歳で存命なように、「戦時中」はけっして、現代と断絶した過去ではない。人は生まれる時代を選べないし、いつの世であっても、自分の生まれた時代を精いっぱい生きることで歴史を紡いできたのだ。せめて祖父や曽祖父たちの世代、羽切さんのような男が日本にいたことを記憶の隅にとどめておきたい。

羽切さんたちの「敵中着陸」を報じた新聞記事や「講談社の繪本」を見ると、メディアもまた、その時代の価値観や空気を色濃く反映するものだということがわかる。このことを論考するのは大切だが、現代の高みから見下ろして、ただ批判することにはあまり意味はない。――現代のメディアもおそらく、後世になって振り返れば、時代の空気のなかで同じことを繰り返しているのであろうから。