蛮勇か?敵地に着陸して焼き討ち…日本海軍一の名物男「波瀾の人生」

その活躍は絵本の題材にもなった
神立 尚紀 プロフィール

「四勇士」の残り3名は戦死

羽切さんはそれからも出撃を重ね、その戦いぶりはしばしば新聞紙上でも大きく報じられ、「ヒゲの羽切」は一躍、全国にその名を轟かせることとなった。

 

昭和16(1941)年夏、過労による胃痙攣を発症し、内地に送還されるが、「講談社の繪本」が発売されたのはその直後のことである。絵本のページは画像を参照いただくとして、本文を現代仮名遣いに訳して紹介する。

〈去年の10月4日、海の荒鷲は、重慶より遠い、山の中にある成都という街を空襲しました。成都の上まで来てみると、向かってくる敵の飛行機が一機もないので、我が荒鷲隊は、すぐさま近くの大平寺飛行場を攻めに行きました。これを見た敵の飛行機6台は、慌てて逃げ出そうとしました。「こいつ、逃がしてなるものか」と、たちまち飛びかかって、見る間にみんな撃ち墜としてしまいました。

けれど、飛行場にはまだたくさん飛行機がしまってあります。格納庫がないので、みんな周りの引込線のなかに入れ、草などかぶせて隠してあるのです。

「それ、あれ全部やっつけろ」元気な荒鷲たちは入れ代わり立ち代わり下に降りて行って、地面とすれすれになるほど低く飛びながら、機関銃を撃ち込みました。

敵の飛行機は、パッと火を噴いて燃え上がります。けれども25台もあるので、なかなか燃しきれません。

「えい、面倒くさい、降りてやれ」大石二空曹はそう決心すると、いきなり飛行場の真ん中にサッと舞い降りました。続いて中瀬一空曹、東山空曹長、羽切一空曹の戦闘機が、次々と着陸しました。なんという大胆なことでしょう。

呆気にとられて見ていた敵の守備兵は、慌てて20メートル先の土手の陰からめちゃくちゃに撃ってきました。けれども決死の四勇士はびくともしません。みんなピストルで応戦しながら、地面に腹ばいして、敵の飛行機に近寄りました。

「それっ、ぬかるな」四勇士は、用意したマッチとぼろきれを取り出すと、次々に敵の飛行機に火をつけました。

「愉快愉快、子供のときの柴焼きよりおもしろいぞ」「機関銃よりマッチ一本のほうが効き目がある」と、みんな敵のなかにいるのも忘れたように、おもしろそうに火をつけて回りました。味方の飛行機は、この勇ましい姿を見おろしながら、頭の上をくるくると飛んで、四人の勇士を守りました。

やがて25台の飛行機を全部焼き払った四勇士は、やあ、お邪魔しましたとばかり、悠々と空へ舞い上がりました。

「ばんざあい、ばんざあい」

味方の飛行機からは、戦友たちが体を乗り出して手を振っています。こうして、味方の飛行機は、みんな揃って、無事に根拠地に帰りました。(終わり)〉

『講談社の繪本 空ノマモリ』より。羽切さんらの「敵中着陸」のシーン(3-1)
『講談社の繪本 空ノマモリ』より。羽切さんらの「敵中着陸」のシーン(3-2)
『講談社の繪本 空ノマモリ』より。羽切さんらの「敵中着陸」のシーン(3-3)

ここに登場する「四勇士」のうち、羽切さんをのぞく3名はその後、太平洋戦争で戦死している。

東山市郎空曹長は、昭和19(1944)年3月31日、第二六一海軍航空隊分隊長として、ペリリュー島上空に来襲したグラマンF6Fと空戦した際、被弾、落下傘降下するも大火傷を負った。そしてサイパン島に送還されたが、病院で動けないまま米軍の上陸を迎え、守備隊とともに玉砕した。戦死時中尉。

中瀬正幸一空曹は、十二空から第三航空隊に転じ、開戦劈頭のフィリピン空襲を皮切りに第一線で活躍を続けたが、昭和17(1942)年2月9日、セレベス島マカッサルで敵装甲車を銃撃したさい、対空砲火を浴び自爆した。戦死時一飛曹。

大石英男二空曹は、昭和19(1944)年9月12日、第二〇一海軍航空隊の一員として展開していたフィリピン・セブ基地が米機動部隊艦上機による空襲を受けた際、基地指揮官の判断ミスで邀撃発進が遅れ、離陸直後の不利な態勢からの空戦で撃墜され、戦死した。当時飛曹長。