蛮勇か?敵地に着陸して焼き討ち…日本海軍一の名物男「波瀾の人生」

その活躍は絵本の題材にもなった
神立 尚紀 プロフィール

戦意高揚の格好の宣伝材料に

漢口基地で横山大尉が、十二空司令・長谷川喜一大佐に戦闘状況を報告する。はじめは上機嫌で聞いていた長谷川大佐が、敵中着陸のくだりになると、とたんに顔色を変えた。長谷川大佐は、

「指揮官たる者の思慮が足りない! 敵飛行場に着陸するなど戦術にあらず、蛮勇である!」

と、横山大尉を怒鳴りつけた。しかし、横山大尉は、まったく悪びれることなく、

「『撃滅せよ』との命令を果たそうとしたまで。部下たちの行動の全責任は、指揮官たる私にあります」

と言い切った。

 

羽切さんたち4名の敵中着陸は、海軍による戦意高揚の恰好の宣伝材料として、結局、追認される。この日の夜9時30分には、支那方面艦隊司令部より、

〈中支艦隊報道部〇〇基地四日午後九時半発表(注:機密保持のため基地名は伏字で発表される)
わが海軍航空部隊は午後二時三十分折柄の密雲を突破して成都攻撃を敢行し敵軍事施設に對し甚大なる損害を與へたり、右攻撃に参加せる横山部隊長の指揮する戦闘機隊は我に反抗せんとする敵機なしと見るや機首を轉じて敵空軍の根據地である大平寺飛行場を急襲し空中において敵戦闘機五機、爆撃機一機を撃墜し更に地上における敵に對し低空に降下して二十五機を銃撃して炎上或ひは大破せしめたり。なほ一部は敵飛行場に着陸を敢行して敵の心膽を寒からしめ全機無事歸還せり〉

という報道発表がなされた。これを受けて同盟通信が〈同盟〇〇基地五日發〉として新聞各社に配信した記事は、

〈(前略)東山市郎兵曹長(長野縣出身)機はサツと敵飛行場目掛けて降下を始め見る間に場内に滑つて行く、續いて羽切一空曹(静岡縣出身)大石二空曹(静岡縣出身)機が場内に舞ひ降りた、見る間に中瀬一空曹(徳島縣出身)も滑り込んだ、期せずして全機が敵飛行場に着陸したのだ

機銃小銃弾の響きがひとしきり飛行場に谺(こだま)した途端機上より躍り出た四名はピストルを亂射しながら左手にマツチをシツカと握つて場内を脱兎のやうに走つて行く、敵の小銃弾が雨のやうに注がれる内に四名は素早く敵機に火を付けた、眞紅な焔が機體をなめ廻すやうにパツと擴がつた瞬間東山兵曹長は敵戰闘司令部に走り込んで行つた 見れば破天荒の着陸攻撃に膽を潰した敵基地守備隊は遁走したものか姿を見せない、好機とばかり最寄りのガソリンを持出して敵戰闘司令部に火を放つた、黒煙は濛々と渦巻いて敵の誇る大平寺飛行場戰闘司令部も忽ち灰燼に帰して行つた、ホツと息をついて空を見上ぐれば友軍機が翼を振り或は機上戦友が手をかざしながら見守つてゐる。任務を果たした四人は素早く愛機に飛び乗つた、飛行場一杯に擴がつて行く黒煙の裡に燃え熾る敵機を尻目に悠々再び空に舞ひ上がつたのであつた〉

と、記者によるかなりの誇張が交えられている。

昭和16年8月、朝日新聞に掲載された、羽切一飛曹(16年6月階級呼称変更)の活躍を紹介する記事。〈空戦にて撃墜8機、地上の大破炎上17機の輝く記録を持っている〉とあり、敵飛行場への着陸にも触れられている

読売新聞は、この敵中着陸を、〈破天荒の快挙〉との見出しをつけて報じた。

「新聞では針小棒大、敵機を焼き払ったことになっていますが、実際にはそこまではできなかった。目的は半ばで達せられなかったけども、でかいことをやり遂げたという、満足感は大きかったですね。横山大尉も、ようやったとご満悦でしたよ」

「独断専行」「蛮勇」との批判もあるが

この敵中着陸については、後年、戦史家からは批判の声も上がっている。

なかでも、特攻兵器「桜花」で編成された第七二一海軍航空隊分隊長を務めた湯野川守正さん(大尉・戦後、航空自衛隊空将補)は、「独断専行」と題した論考(『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会・原書房)のなかで、

〈中には、敵飛行場に降着し、敵機の焼き討ちを企図した暴挙といわれる筋合いの行動(昭和十五年十月四日)もあるが、それさえも、賞揚されるという結果が出たことがある。
本行動が命令によるものか、着陸した四人の独断専行によるものかは不明瞭である。(中略)もしも、命令であったとしたら、最新式兵器である零戦が、被弾又は搭乗員の死傷によって再離陸できない場合も考慮に入れるべきであり、本命令は適切を欠いたものであろう。命令によらない行動とすれば、本件は独断専行ではなく、独断専恣(せんし)に属する行動であったと考えられる。〉

と、厳しく指摘している。だが、羽切さんは、

〈この頃は過ぎたる独断専行や蛮勇も、失敗しない限りむしろ奨励された時代であった。決して軽挙妄動とは思わない。〉

と、遺稿となった手記の中で反論している。

昭和16年、新聞記事向けに、零戦の垂直尾翼に撃墜マークを描く羽切一飛曹

「独断専行」と「独断専恣」とは、現地の指揮官が予期せぬ状況の変化に遭遇した場合、上級司令部ならどう考えるかを判断し、それに沿った行動を独断でとるのが「独断専行」、自分一人の勝手な判断で、上層部の意に反した行動をとるのが「独断専恣」と、言葉の上ではっきりと区別されていた。

敵中着陸の翌10月5日、零戦隊は飯田房太大尉の指揮で重ねて成都を攻撃、地上銃撃で残存していた10機を炎上させ、ふたたび中華民国空軍主力は壊滅した。

10月31日になって、9月13日の重慶空襲・零戦初空戦、10月4日の成都空襲における十二空戦闘機隊の活躍に対し、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将より感状が授与された。敵中着陸については、後世の目はともかく、のちに感状まで授与されているので、当時は許されるべき「独断専行」と認められたと考えて差支えはないだろう。