蛮勇か?敵地に着陸して焼き討ち…日本海軍一の名物男「波瀾の人生」

その活躍は絵本の題材にもなった
神立 尚紀 プロフィール

しごきに嫌気がさし、搭乗員を志願

羽切松雄さんは大正2(1913)年11月5日、静岡県富士郡田子浦村(現富士市)で、半農半漁を営む羽切家の次男として生まれた。戦前の家族制度では、家を継ぐのは長男である。大正末期から昭和のはじめの大不況の時代、村にいても居場所がなく、仕事もない農家の次男、三男はこぞって陸海軍を志願した。

 

羽切さんも、高等小学校を卒業してしばらく家業を手伝っていたが、昭和7(1932)年、技術を身につけて将来の就職につなげようと海軍を志願、機関兵として横須賀海兵団に入団する。そして海兵団での基礎教育を終え、当時最新鋭の重巡洋艦だった「摩耶(まや)」乗組となったが、機関科での若年兵に対するしごきは想像を絶するものだった。

「殴られ通しに殴られて、ほとほと機関兵が嫌になり、当時『摩耶』に搭載されていた2機の艦載水上機の勇姿に憧れて、いつしか飛行機搭乗員を志すようになりました」

と羽切さん。周囲の嫌がらせに耐えながら超難関の操縦練習生の試験を受け続け、何度めかにやっと合格。昭和10(1935)年2月、第二十八期操縦練習生に採用され、霞ケ浦海軍航空隊でパイロットとしての訓練を受けた。そして、選ばれて戦闘機搭乗員となる。

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本陸軍と中華民国軍が衝突、これをきっかけに支那事変が始まると、空母「蒼龍」に乗組み、九六戦に搭乗、陸戦協力や味方基地に来襲する中華民国空軍機の邀撃などで出撃を重ねた。

昭和13年、空母「蒼龍」乗組の頃。九六戦とともに。当時25歳

昭和14(1939)年12月、羽切さんは、その抜群の技倆を見込まれ、横須賀海軍航空隊(横空)に転勤を命ぜられた。横空は戦訓、戦法の研究や、新型機の実用実験を担う航空隊で、その性格上、海軍きっての腕利きのパイロットが揃っている。

羽切さんが着任した頃、十二試艦上戦闘機試作一号機が横空に置かれていた。零戦の原型である。羽切さんは、この飛行機の実用実験にも携わった。

はじめて操縦した十二試艦戦の印象について、羽切さんは、

「九六戦とは全くちがうスマートな姿でした。乗ってみると振動は多少、気にかかりましたが、上昇力は抜群で、『これは速いなあ』と思った。上下や左右の運動には安定感があり、風防をかぶるので音も静かで、乗り心地は最高でした」

と回想する。

新時代の戦闘機としての資質を備えた機体であることを、テストパイロットたちは肌で感じ取っていたのだ。だが、引込脚、可変ピッチプロペラ、20ミリ機銃搭載など、新機軸を満載したゆえのトラブルは多く、ときに人命にかかわるような事故も起きた。

昭和15(1940)年3月11日には、海軍を昭和12(1937)年5月に満期除隊して、航空技術廠(空技廠)でテストパイロットを務めていた羽切さんの同年兵・奥山益美職手(殉職後工手)が操縦する十二試艦戦試作二号機が、横空上空で空中分解、パイロットが墜死するという痛ましい事故が発生している。

支那事変が始まって3年、大陸での戦いはいつ果てるともしれない泥沼化の様相を呈していた。ソ連製やアメリカ製の戦闘機、爆撃機を装備した中華民国空軍の戦意は旺盛で、日本軍基地はしばしば爆撃を受け、その都度、大きな損害を出していた。当時、重慶、成都に配備されている中国空軍の第一線機の戦力は、日本側の分析によると、爆撃機75機、戦闘機約80機にのぼっている。

そのため、日本陸海軍は、昭和15年5月、中国国民党政権が臨時首都を置く中国空軍の拠点・重慶への大規模な空襲を開始することになった。「百一号作戦」と呼ばれる。海軍の攻撃機は、双発の九六式陸上攻撃機。ところが、日本軍が航空部隊の主力を置く漢口基地から重慶までは片道430浬(約800キロ)近い長距離飛行となるため、片道200浬(約370キロ)ほどが進出距離の限度であった当時の九六式艦上戦闘機では航続力が足りず、攻撃機の護衛に同行することができなかった。

護衛戦闘機をもたない攻撃隊は、中国空軍の戦闘機の邀撃を受け、5月から8月の間に、海軍だけで8機を失い、戦死者70名、戦傷者29名という損害を出している(同時期の陸軍の損害は爆撃機5機、偵察機3機、戦死41名、戦傷者20名)。

敵戦闘機による脅威を取り除き、攻撃機の被害を防ぐため、長距離進攻に同行が可能な航続力の長い新型戦闘機――十二試艦戦――の、一刻も早い投入が待ち望まれていたのだ。

「最初の零戦隊」の一人に

横山保大尉の率いる十二試艦戦の第一陣6機が、漢口基地へ向け横須賀基地を出発したのは7月23日。24日、十二試艦戦は海軍に制式採用され、神武紀元二六〇〇年の末尾の〇をとって零式艦上戦闘機(零戦)と名づけられた。7月26日、先の横山大尉以下6機が漢口基地に到着、第十二航空隊(十二空)に配備される。

羽切さんが、零戦第二陣7機の一員として漢口に進出したのは、8月12日のことだった(8月23日にも4機が進出、零戦は計17機となる)。搭乗員は、横空から零戦とともに進出してきた者を中心にA班(10名)、元から漢口基地にいたなかから選ばれた者を中心にB班(12名)が編成され、基本的に交代で出撃することとなった。

8月19日、零戦が重慶へ初めて出撃したときは、A班の羽切さんは横山大尉の二番機として出撃。しかしこの日は敵機と遭遇せず、むなしく帰投した。8月20日、第2回出撃のときも敵機は姿を見せなかった。中華民国軍は、途中の山々に狼煙を上げて、日本の攻撃隊に戦闘機が随伴していることを重慶に知らせていたのだ。9月12日の第3回出撃のときも、羽切さんは参加したが敵を見ず、飛行場を銃撃して建物を炎上させたのみであった。

昭和15年8月19日、零戦の初出撃に際して、漢口基地で支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将の見送りを受ける搭乗員たち。飛行服姿の搭乗員前列左より、横山保大尉、羽切松雄一空曹、東山市郎空曹長、進藤三郎大尉、北畑三郎一空曹、白根斐夫中尉

進藤三郎大尉が指揮する零戦13機が、中華民国空軍戦闘機約30機と初めて空戦をまじえ、27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失ゼロという鮮烈なデビューを飾ったのは、4度めの出撃となった9月13日のことである。

昭和15年8月、揚子江上空を飛ぶ零戦(撮影・進藤三郎大尉)

「13日、B班主体の搭乗員が、進藤大尉が発案した特殊な戦法――いったん引き返したと見せかけて、ふたたび敵地上空に舞い戻る――でようやく敵機を捕捉し、大戦果を挙げたわけですが、味方が戦果を挙げたのは喜ばしい。しかし、私たちA班は、横空で試作一号機をテストして以来、零戦のことなら俺たちに任せとけ、と意気軒昂だっただけに、一番槍を越されたことは、なんとしても悔しかったですね。横山大尉も同じ気持ちだったと思います」

と、羽切さんは回想する。そしてこの悔しさが、のちに彼らA班の一部を破天荒な行動に駆り立てることになる。