羽切さんたちの敵中強行着陸が題材となった『講談社の繪本 空ノマモリ』

蛮勇か?敵地に着陸して焼き討ち…日本海軍一の名物男「波瀾の人生」

その活躍は絵本の題材にもなった

今から78年前の戦時中に刊行された絵本がある。タイトルは、『講談社の繪本 空ノマモリ』。その題材となっているのは、当時、高い空戦技術と大胆不敵な戦いぶりで、海軍一といわれた名物パイロットだった。

その名物男は、苛烈を極める戦争のなかで、空戦で瀕死の重傷を負い、妻子を病で失うという不幸に見舞われながら、終戦間際まで闘志満々で戦い続けた。戦後も波瀾万丈の人生を送った男は、晩年、死を目前にした日々の中で何を語ったのか。

 

遺品の中にあった絵本

今年(2019年)の春、静岡県在住のある零戦搭乗員(故人)の息子さんより、大きな段ボール箱が届いた。

「自分も高齢となってきたので、父の遺品の資料を託したい。とりあえずまとめて送るので、必要でないものは処分してください。家族にはかえって価値がわからないから」

とのことだった。

遺品の主は羽切松雄(はきり・まつお)中尉。ピンと髭を伸ばした独特の容貌から「ヒゲの羽切」の異名で呼ばれ、神業的な操縦技倆と勇猛果敢な戦いぶりで、海軍戦闘機隊では知らぬ者がない、と言われたほどの名パイロットである。

零戦の名パイロットとして知られた羽切松雄さん。左・昭和13年、25歳。右・平成8年、82歳(右写真撮影/神立尚紀)

私は、羽切さんの生前にインタビューを重ね、その人生を何冊かの本で書いたことがあり、亡くなったときには通夜、告別式、そして「お別れの会」にも出た。長男・和彦さんとはその後も年賀状のやりとりは続いていたが、そんな縁から、羽切中尉の遺品を私が預かることになったのだ。

段ボールに詰まっていたのは、羽切中尉が実戦で使用した航空眼鏡や航法計算盤のほか、当時の日記や飛行経歴を記した航空記録、勤務録、履歴表、乗組んでいた空母「蒼龍」の「蒼龍新聞」、海軍の教科書、勤務していた部隊の名簿類、そして戦中、戦後の膨大な新聞のスクラップブックなど。どれも羽切さんの息遣いを感じるような貴重な資料で、処分してよいものなど一つもない。

羽切さんが遺した戦中の史料の一部

そんな遺品のなかに、一冊の絵本が混じっていた。タイトルは『講談社の繪本 空ノマモリ』。「大日本雄辯會講談社」(現・講談社)が、昭和16(1941)年に発行したものだ。オールカラー印刷で、総ページ数72頁。奥付によると、昭和16年10月1日発行、定価50銭(内地送料2銭、外国送料20銭)とある。公務員の初任給ベースで現代の物価に置き換えれば、1500円ほどになろうか。

羽切さんの遺品に入っていた『講談社の繪本 空ノマモリ』(昭和16年)

陸海軍の航空部隊の装備、訓練、職種、戦いぶりをわかりやすく網羅、紹介し、読者である少年たちの空への憧れをかきたてる内容である。表紙を開くと、〈皆で空を守りませう〉と題する、大日本雄辯會講談社 繪本編輯部による巻頭言があり、

〈今度の支那事變で、わが陸海の空軍(注:日本では陸軍、海軍がそれぞれ航空部隊を持ち「空軍」はないが、陸海軍航空部隊の総称として慣用的に用いられていた)は、到るところ、目ざましいはたらきをして居ります。この強い空軍によつて、日本の空が固く守られてゐるのは、本當にありがたいことです。(中略)日本の大空、私たちの空、といふ氣持を、しつかりと心にしみこませて置くことは、日本の子供のつとめです。(以下略)〉

と記されている。

『講談社の繪本 空ノマモリ』より、絵本編集部による巻頭言

現代の視点で見れば、「子供の絵本までもが軍国教育の具に使われた暗黒の時代」と切って捨てることもできるだろう。だが、歴史は段階を踏んで進んでいる。支那事変(日中戦争)での戦果のニュースに国民も熱狂していた、その時代の空気や価値観を俎上に載せて考えれば、編集部もふくめ、当時、この絵本の内容や編集方針に疑問を持つ人は(軍の圧力云々は別にしても)多くなかったはずである。

なぜこの絵本が遺品のなかに、と思って頁を開くと、羽切さんが登場する一章が目に留まった。50ページから55ページまでに掲載された「テキキ ヲ ヤキハラフ」(敵機を焼き払う。文・朝倉健、絵・飯塚羚児)と題する絵入り読み物だ。

昭和15(1940)年10月4日、実戦デビューして間もない零式艦上戦闘機(零戦)隊が、成都の中華民国空軍基地を空襲したさい、地上にある敵機を焼き払おうと、羽切さん(当時一空曹――昭和16年6月1日に飛行兵曹と階級呼称が改定される前は、飛行科の下士官は航空兵曹と呼ばれていた)ら零戦4機が成都・大平寺飛行場に強行着陸した実話に基づいたものである。

ただ、絵本に描かれた戦闘機は、零戦の前の九六式艦上戦闘機(九六戦)になっていて、これは、零戦は昭和15年7月24日、海軍に制式採用されたばかりで、その存在は「海軍新鋭戦闘機」といった形でしか公表されておらず、一般にまだ知られていなかったからだと思われる。

『講談社の繪本 空ノマモリ』より。飯塚羚児画伯が描いた空戦の図

絵を描いた飯塚羚児氏(1904-2004)は、当時、挿絵画家として「少年倶楽部」などの雑誌で活躍した人で、現在、靖国神社遊就館に飯塚氏が描いた戦艦「大和」の絵が飾られている。