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属州総督カエサル、やっかいな任地へ赴く

【5分de名著】カエサル『ガリア戦記』訳:國原吉之助 ①
名著を実際に読んでみよう!「講談社学術文庫」からお届けする、好評「チラ読み」企画、今回は『ガリア戦記』をチョイスしました。天才政治家にして稀代の軍略家カエサルは、ローマ軍を率いてのガリア遠征を、自らどのように書きのこしたか。古代研究の最重要史料であり、文学作品としても古来より高く評価されるこの作品、冒頭からご覧ください。

ガリアの三部族

第一巻 一年目の戦争(紀元前五八年)

 一 ガリアについて

1 ガリア全体は1、三つの部分に分れていて、その一つにはベルガエ人が住み、もう一つにはアクィタニ人が住み、三つめには、その土地の人の言葉でケルタエ人とよばれ、われわれローマ人の言葉でガリア人とよばれる民族が住んでいる。

 この三部族は、お互いに違った言語と習慣と制度をもっている。ケルタエ人とアクィタニ人の境界は、ガルンナ川であり、ケルタエ人とベルガエ人を隔てているのは、マトロナ川とセクアナ川である。これらすべての民族の中で、いちばん勇猛果敢なのは、ベルガエ人である。

 その理由は、まず、彼らは洗練され開化したローマの属州から遥かに遠く離れて住み、彼らの所には、ごくまれにしか商人が行き来せず、したがって、人心を柔弱にする贅沢品が持ちこまれることも、めったにないためである。次に、ベルガエ人は、レヌス川の向こう岸に住むゲルマニア人と、すぐ隣り合い、ゲルマニア人とのべつまくなしに干戈(かんか)を交えているためである。

 これと同じ理由から、ヘルウェティイ族もまた武勇の点で、それ以外のケルタエ人を凌駕している。というのも、ヘルウェティイ族は、あるときは、自国の領土をゲルマニア人の侵入から防ぎ、あるときは、自分らの方からゲルマニア人の領土に攻撃をしかけたりして、ゲルマニア人との合戦を、ほとんど日常茶飯事のごとく行なっているからである。

 以上三つの地区のうち、先にも述べたように、ケルタエ人の定住している領地は、まずロダヌス川に始まり、ガルンナ川と大西洋とベルガエ人の領土とで限られている

 さらにセクアニ族とヘルウェティイ族の住む東側では、レヌス川に接していて、ケルタエ人全体が、ローマの属州からすれば、北の方に位している。

 ベルガエ人は、ケルタエ人の領土の北方の境界から始まり、レヌス川の下流地域に及び、全体がケルタエ人の北東に位している。アクィタニ人の領土は、ガルンナ川から始まり、ピュレネ山脈に及び、さらにヒスパニアの大西洋岸にまで達している。全体がローマの属州の北西に位している3

動きはじめたヘルウェティイ族

 二 ヘルウェティイ族との戦い

2 ヘルウェティイ族のうちで、群を抜いて、高貴な血統と資産を誇っていたのは、オルゲトリクスである。彼は、メッサラとピソが執政官であった年、すなわち紀元前六一年、王位を手に入れたいという欲望にとりつかれ、他の名門の者たちとひそかに示し合わせておき、同胞をこう説得した。

 「われわれは、全部族をあげて、この領土より出て行こうではないか。武勇の点で、われわれはあらゆる部族にたちまさっているのだから、ガリア全土の統治権を所有することは、造作もないことだ」と。

 この提案は、ヘルウェティイ族が四方を完全に自然の障壁で取り囲まれているだけに、なおさら、あっさりと承認された。つまり、一方の側には、非常に広くて深いレヌス川があり、これがヘルウェティイ族の領土とゲルマニアとを分けている。別の側には、非常に高いユラ山があり、セクアニ族とヘルウェティイ族を隔てている。三番目の側には、レマンヌス湖とロダヌス川とがあり、ローマの属州とヘルウェティイ族とを分けている。

 こうした事情から、彼らの行動範囲もせばめられているし、周辺部族を攻撃するにも思うにまかせない、というわけであった。この点で好戦部族の彼らは、じつに歯がゆい思いをしていた。「われわれの大きな人口と比べても、戦争と武勇とでこれまで勝ち得た光栄と比べても、この居住地は狭すぎる」と考えていた。土地の面積は、長さが三百六十キロ、幅が二百七十キロであった。


(1)「ガリア全体は……」カエサルは「ガリア」という言葉を、広義と狭義、つまり広く三つの地区を包括させる場合と、小さく、ケルタエだけを意味させる場合と、両方を区別せず使っている。全巻を通じ、もし狭義の使用を明確にしなければ、文意が曖昧となる場合、ケルタエと訳しておいた。
(2)「以上三つの地区のうち……」以下1節の終わりまでKMは、カエサルのものではなく、後世の書き入れと考える。この考えに、cett.は反対。訳者は後者に従う。
(3)「ローマの属州の北西に位している」今日では西というべきだが、カエサル時代、こう考えられていた。五巻注13、14、15参照。

(4)「メッサラとピソが執政官であった年」ローマでは年号を二人の執政官の名前で表現し、数字をあげない。「すなわち六一年」は原典になく、訳者の説明で、元来注に記すべきものであろう。以下、同様である。