『水戸黄門』2019年版を見て「昭和からの大変化」にびっくりした件

入浴シーンもこんなに変わった
堀井 憲一郎 プロフィール

じゃあ、何かのシルシを示されるだけで平伏するような権威は、昭和のころはあったのかと言われれば、むずかしいところである。昭和の時代の私はまだ若かったから「自分は平伏するつもりはないけど、でも世の中にはそういう権威を大事にしてる人はいるんじゃないか」というふうにぼんやりおもっていた、あたりだとおもう。戦争行った人もいっぱいいるし、という感じでもある。

何の説明もなく人に序列がついているという社会的な前提は、つまり身分制度の残存は、昭和の終わりころまでは、まだ社会のどこかに残っていた。実際に残ってたというより、そういう社会をリアルに想像できる世代がまだいたということである。

いまはその感覚はない。

ものすごく大雑把に言えば、大正時代がいろんな切れ目で、その時代の人は古い時代の感覚をまだ皮膚感覚として持っていたのだ。

 

大正の時代は、江戸生まれの人が残っていた最後のころだし、そのころ生まれた人はそういう空気をぎりぎり知ってることになる。

そして大正生まれの男たちはみんな戦争に行き、その世代の人は戦後になってテレビの時代劇がとても好きだったのだ。すごく大雑把なまとめかたで申し訳ないけど、戦中戦後を簡単にまとめるとそうなってしまう。その人たちが減っていくにつれて、時代劇が消えていったのだ。

いまの世の中には「黄門様のような見渡すかぎりを薙ぎ倒す圧倒的な権威」というのは存在しない。いやそんなものはもともと存在しないのだが、「多くの人が同時に想像する」ということがいまでは不可能である。誰かが勝手に想像していてもそれは共有されることはない。

個人を強く主張してもいい世の中だから、その手の共同幻想は持ちにくい。

「有象無象の自己主張を一瞬にして黙らせる権威」はいまの世の中では想像することもできない。インターネットがまったく沈黙するという権威を想像できない。そんなものが出現したら、かなりまずい状況だと言わざるをえない。

だから、武田鉄矢の黄門さまを見てると、ただ「いや、ないわー」とおもってしまうのである。べつだん武田鉄矢のせいではない。しかたがないことである。大正は遠くになりにけり、というところだ。語呂が悪いけど。