昭和18年10月、セレベス島ケンダリー基地の「Ⅹ空常設劇場」で催された慰問公演。マイクの左側の女性に注目!

1枚の写真が語るドラマ…のちの大女優が若き零戦搭乗員に託した思い

出撃直前に手渡したマスコット

一枚の舞台写真がある。

正面の軍艦旗と、そこに掲げられた勇壮な「撃滅ぶし」という歌詞から、戦時中の写真であることはわかる。舞台の上には、音頭をとる男性をはさんで、右に男性3名、左に女性3名が並んで歌っている。一見、なんの変哲もないステージのワンシーンだ。だがよく見ると、左から3人めの女性の顔にピンとくる人もいるかもしれない。

森光子(1920-2012)——のちに「日本のお母さん」と呼ばれ、テレビを通してお茶の間に親しまれた大女優の若き日の姿なのだ。

この写真は、当時、第二〇二海軍航空隊の零戦搭乗員として蘭印(現・インドネシア)を拠点に連合軍機と戦っていた加藤清(戦後、伊藤より改姓。飛曹長。1921-2012)のアルバムに大切に貼られていた。セレベス島(現・スラウェシ島)ケンダリー基地で催された慰問公演のひとコマである。

「きれいというか、可憐な人でしたよ。戦後テレビで見て、『あっ! あのときの慰問団の!』とすぐにわかりました。私とそんなに年齢は変わらんはずですが、歳をとってもきれいだなあ、と。いま見ても鼻の下が伸びますね」

加藤清(旧姓・伊藤) 零戦搭乗員。森光子の慰問公演の写真を保管していた(右写真は撮影/神立尚紀・以下同じ)

と、加藤は生前、筆者に語ったものだった。ここでは、この一枚の写真から、戦時下の森光子と零戦搭乗員たちのエピソードを辿ってみたい。

二〇二空零戦隊の搭乗員たち。右から2人めが加藤清。昭和18年2月撮影

慰問団の中から、小柄な若い女性が駆け寄り…

太平洋戦争もたけなわの、昭和18(1943)年10月7日のことである。

上海在勤の日本海軍武官が、敵の暗号電報を傍受して得た、〈英国東洋艦隊(戦艦四隻、空母一隻)ベンガル湾に向かう〉との情報に、海軍航空隊の蘭印(現・インドネシア)での拠点であったセレベス島ケンダリー基地に緊張が走った。

ただちに、第七五三海軍航空隊(七五三空)の一式陸攻(双発の攻撃機)3機を、第二〇二海軍航空隊(二〇二空)の零戦9機の護衛のもと、ベンガル湾の索敵に発進させることになり、零戦隊は、ケンダリーからベンガル湾により近いバタビア(現・ジャカルタ)基地へ移動を命じられる。20歳になったばかりの零戦搭乗員・吉田勝義一飛曹(のち飛曹長。1923-2018)も、そのなかの一員に加えられていた。吉田は、歳こそ若いが、オーストラリア本土のダーウィン空襲など幾度もの実戦に参加、豪州空軍のイギリス製戦闘機・スピットファイアを撃墜するなど、戦場の場数を踏んできている。

 

緊迫するケンダリー基地の一角で、零戦隊の発進を見送る民間人の一団がいた。内地から、前線将兵への慰問巡業に来ていた慰問団である。彼らはその前夜、ケンダリー基地に設けられた舞台で、4時間にもわたって歌や踊り、音楽演奏を披露していたのだ。

指揮所前で発進命令を受け、乗機に向おうとする吉田に、見送る人の列のなかから小柄な若い女性が駆け寄ると、飛行服のベルトに小さなマスコットを挿した。

「かわいい人だな」

と吉田は思ったが、出撃まぎわのことでもあり、言葉をかわす余裕もなかった。吉田は女性に黙って敬礼すると、発進準備のととのった零戦に乗り込んだ。離陸して、腰に挿したマスコットを見ると、それは端切れでできた手作りらしい人形だった。

吉田勝義 零戦搭乗員。出撃直前、森光子にマスコットを渡された

——このとき、吉田にマスコットを渡した女性が、のちに国民的大女優となる森光子である。