仙人が住む谷へ
「本当に家なんてあるのか?」
2019年の日本にも、まだこんなところが……携帯の電波も繋がらない山のなか、車を走らせていた筆者は思わず不安を漏らしてしまった。
三重県大台町にある大杉谷。黒部、清津と並ぶ日本三大渓谷のひとつで、「最後の秘境」として知られている。ここに「三重の仙人」と呼ばれる人物が住んでいるとの情報を聞きつけ、彼の住まいへとお邪魔することになったのだ。
だが、車一台がやっと通れる山道を進めど進めど、家らしきものは見えてこない。右手にはむき出しの岩肌、左手にはエメラルドグリーンの宮川が流れている。長いあいだ誰とも出くわさないでいると、それまで美しいと思っていた景色も心なしか不気味に思えてくる。
最寄りの高速道路出口から車を走らせること1時間、約40キロの地点でようやく小屋らしきものを発見。そこに、巽幸則さん(たつみ・ゆきのり、71歳)はいた。
「よう来たなあ!」
人の声を聞いて一瞬安堵──する間もなく、筆者はたじろいだ。スキンヘッドにヒゲ面、おまけに上半身裸だったのだ。
彼はニカっと笑うと、すぐそばを流れる宮川を一望できる木陰へと案内してくれた。
悠々自適
「この家は国立公園のなかにあるんやけど、そんなとこに住んどるやつ、そうそうおらんやろ。取材に来るいうて、途中で引き返してしまう人間もおるんよ。こんな山奥に人が住んどるはずない、って。タクシーを頼んでも、運転手が嫌がってここまでは来ん。
俺の生活コンセプトは3つ。ひとつは自然を独り占めすること、もうひとつは毎日キャンプのような生活を送ること、そして最後が『男の隠れ家』に住むこと。全て兼ね備えたのがこの家や」
少し隠れ過ぎでは……とはいえ、やはり気になるのがどんな生活を送っているかだ。さっそく聞いてみた。巽さん、ここで何をしているんですか?
「ボーっとしてるんだよ(笑)。もちろん予定がなにもなければ、に限るけどな。川のせせらぎ、風の音、葉っぱが擦れ合う音なんて聞きながら、うたた寝したり、読書したり……これが極上の時間やな。
時間なんてあっという間に過ぎるから、全然飽きないね。それに、自然って毎日表情を変えるしな。目の前の宮川は毎日水量が変わるし、葉っぱの色だって観察していると、変わりゆく様子がようわかる。春なんて毎日葉っぱの色が変わるから、そらすごいで。

今の人たちにはな、もっとボーッとせえよって言いたいな。ボーッとする時間、あるんか? ボーッとできる場所があるんか? タバコ一本吸うのも神経使うやろ。街でも吸えない、家でも吸えない、ベランダでも吸えないって。そんでもって仕事に追われてなあ。もっとボーッとしても、ええんちゃう?」