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「人を殺して金をとってでも健康な足がほしい」戦争孤児の壮絶人生

知られざる「引揚孤児」のその後(5)

社会の風当たりは想像以上に激しかった

神奈川県横須賀市の児童養護施設・春光学園には、敗戦から10年が経とうとする時期にも引揚孤児たちの姿があった。

5歳前後で引き揚げてきた孤児たちはまだ中学生くらいだったし、連載の4回目(東大卒の養父から性的虐待…戦争孤児が回想する「奴隷のような日々」)で見たように、一度は里親のもとに養子として出されたものの、新しい家庭になじめずに出戻りする子も少なくなかった。

 

ただ、そんな子供たちも中学を卒業した後は、高校へ進学しないかぎり、順次園を離れることになっていた。当時の子供たちは中卒で住み込みの就職先を見つけて社会へ出るというのが一般的だったのだ。

創設者の樋口宅三郎の懸念は、園を出ても社会に適応できない子供たちが多かったことだ。子供たちはただでさえ戦争の深い傷を抱えている上、物心つくかつかないような年齢から親の愛情を知らずに育ってきた。そんな彼らにとって社会で自立するということは、帰る港もないまま、小舟で荒波に漕ぎ出すようなものだった。

2歳でロタ島から引き揚げてきた赤尾信一は言う。

「社会に出ると、施設での孤児って目で見られることはありましたね。それに、職場でいじめみたいなこともありました。施設の子は、社会に出た後に味方がいないんで孤独なんですよ。僕は中学を卒業した後に、住み込みでくず餅屋で働いていましたが、ずっと一人ぼっちで生きているような気持ちでした。園にもどりたい、みんなに会いたい。そんなことばかり考えていました」

社会の風当たりは想像以上に激しかった。施設から社会に出た者たちを「元浮浪児」「元ルンペン」と蔑み、保護者がいないのをいいことに重労働をかされたり、物がなくなった時には真っ先に疑われたりした。

樋口は園を卒業していった子供たちがそうした壁にぶつかっているのを知っていた。中には仕事を辞めて行方がわからなくなってしまっている者もいた。樋口はそうした子供たちのために何かをしたいと考え、一つのアイディアを思いつく。子供たちが社会で独り立ちできるようになるまで支援することを目的とした施設を新たにつくることにしたのである。

そうしてできたのが、「希望寮」だった。これが、今でいう自立援助ホームの先駆けだった。

※自立援助ホーム=就職することにより児童養護施設等を退所した児童に、生活指導等を行うことで社会的に自立するよう援助する施設。