東大卒の養父から性的虐待…戦争孤児が回想する「奴隷のような日々」

知られざる「引揚孤児」のその後(4)
石井 光太 プロフィール

必ずしも幸せではなかった

養子に行った先では、それなりに苦労はあっただろうが、みや子は恵まれていたといえるかもしれない。実は園から養子に行った者たちは、必ずしも幸せだったとは限らなかったのだ。

たとえば、みや子と同じ時期に養子に行った内村和子(仮名)という14歳の女の子がいた。彼女は茅ヶ崎市に暮らす東大出身の国鉄の職員夫婦のもとに養子に出されることになった。樋口は、この家庭ならば大丈夫だろうと信じて疑わなかった。

だが、半年後のある日、和子は肩を落とし、暗い顔をして園に帰ってきた。樋口が理由を尋ねても、「2度とあの家には帰らない」と言い、「死にたい、死にたい」とくり返す。どうやら、東大卒の養父から性的な虐待を受け、それに耐えられずに逃げてきたようだった。樋口は愕然としてかける言葉もなかった。東大卒なら安心と思っていたのが、完全に裏切られたのである。

その後も、和子と同じように、一人また一人と養子に行った子供たちが、里親とのトラブルが原因で園に帰ってきた。里親の一部は、養子を奴隷のようにしか考えておらず、朝から晩まで畑で重労働をさせたり、家事を任せたりしたのだ。子供たちは学校へも行かせてもらえず、園に逃げ帰ってきたのである。

 

元浮浪児の菅野恭一郎は次のように語る。

「あの時代は農業をやっている家がたくさんありました。戦争で若い息子を失ったら労働力や跡継ぎがいなくなりますよね。それで農家によっては人買いから浮浪児たちを買ったり、養子という名目で子供たちを集めたりして力仕事をさせていたんです。

あの頃の30代、40代の男の人たちはみんな軍隊に駆り出された経験があるので、怖かったですよ。少しでもサボれば、軍隊式に鉄拳です。棍棒でやられることだってある。浮浪していた子供たちや、園にいた子供たちからすれば、なんでこんなつらい思いをしなきゃいけないんだって思いになりますよね。それで逃げ出す子も多かったんです」