東大卒の養父から性的虐待…戦争孤児が回想する「奴隷のような日々」

知られざる「引揚孤児」のその後(4)
石井 光太 プロフィール

養子になり、365日仕事

同じ頃、園では新たな試みがはじまる。神奈川県児童課が各養護施設に暮らす戦災孤児たちを養子に出す里親事業に乗り出したのだ。

樋口はかねてから、子供たちは園での集団生活より、特定の里親のもとで深い愛情を受けながら育つ方がいいと考えていたこともあって、県下の他の施設に先駆けて手を上げて、子供たちを里親へ送り出すことを決めた。

連載の第2回(ゲリラ兵が射殺、両親は自殺…戦時中、ある少女が味わった壮絶体験)で紹介したフィリピンからの引揚孤児である田中みや子も、この年に養子に行った一人だ。5歳で終戦を迎えて日本に引き揚げた後、春光学園から地元の小学校へ通っていた。小学3年生のある日、呼び出されてこんなふうに言われた。

「園を出て養子にいかないか。県がきちんとした里親を見つけてもらえる。家庭で生きていくことができるぞ」

みや子は家庭がほしかったし、周りも里親のところへ行くとあって、その申し出を受けることにした。

彼女の引受先は、神奈川県三浦市で農家を営む夫婦だった。夫婦には子供がおらず、少し前から民生委員を通して女の子の養子を求めていたのだ。養子にはゆくゆく跡継ぎとなる婿養子をもらってほしいと考えていた。

 

みや子は語る。

「春光学園では『なるべく子供たちを家庭にもどす』という方針でした。里親の希望としては女の子の方が多かったみたいですね。里親としては女の子の方が扱いやすいし、後々面倒をみてくれるという思いがあったみたいです。

私の里親になってくれた夫婦は農家を営んでいたので、毎日が本当に大変でした。朝早く起きて農作業をしながら小学校、中学校に通うんです。後を継ぐことが決まっていたので、中学を卒業した後は進学せずに家の農業を手伝っていました。田植えはもちろん、大根など野菜も育てましたし、農具の代わりに牛も飼っていたので、その世話もしなければなりませんでした。1日も休みがなく、365日仕事でしたね。

結婚は24歳の時でした。米軍基地で働いていた同じ歳の日本人男性とお見合いをしたんです。彼は9人きょうだいだったこともあって、早く家を出ろと言われていたみたいですね。長く家にいれば負担になりますから。それでうちに婿養子に入ってもらい、農家を継いでもらったんです」