東大卒の養父から性的虐待…戦争孤児が回想する「奴隷のような日々」

知られざる「引揚孤児」のその後(4)
石井 光太 プロフィール

「栄養食」がもたらしたもの

福祉委員会は、市の福祉事業の方向性を決める機関だった。

4人いる委員の一人に、米軍横須賀基地司令官のB.W.デッカーの委嘱のフランス人神父がいた。デッカーは戦後の横須賀市民の生活支援に力を入れたことで知られており、この時も神父から福祉委員会で上がった樋口からの訴えを聞くや否や手を打つことを決めた。

米海軍のトラックを派遣し、進駐軍の倉庫にあった大量のメリケン粉を届けたのである。園の職員たちは大喜びしてメリケン粉でたくさんの水団をつくり、園にいた60人以上の子供のお腹をいっぱいにしてあげることができた。

デッカーの支援はこれにとどまらず、米軍横須賀基地で出た余剰食糧(保存期限切れの食糧や残飯)を定期的に横須賀婦人会に託し、そこから春光学園や生活困窮者に配る仕組みをつくった。週に1回だったが、これによって食卓が大いににぎわったそうだ。

 

当時の少年たちによれば、毎週子供たち数人が選ばれ、リアカーを引いて横須賀駅の裏にある婦人会の事務所まで行ったという。事務所には余剰食糧がいっぱいに入った石油缶が並べられていた。子供たちはそれをリアカーに載せて、再び4キロの道を歩いて園へ帰った。

園では小さな子供たちが今か今かと待ち構えて、リアカーが見えると鐘を鳴らして迎えた。子供たちは米軍からもらえる余剰食糧を「栄養食」と呼んでいたという。

息を飲んで石油缶を開けてみると、パンやステーキやポテトなどがゴチャゴチャになって入っていたという。また、スープ専用の缶もあって、中身はオニオンスープ、コーンポタージュなどいろんなスープが混ざった"総合スープ"だった。さらに、コカ・コーラ、チューインガム、チョコレートなど子供たちが大好きなお菓子が入っていたこともあった。

このように米軍の支援によって園の食糧事情が落ち着くにつれ、次第に脱走する浮浪児たちも少なくなってきた。すでに終戦から3年以上が経ち、社会そのものの秩序を取り戻しつつあることも大きかったのだろう。アスファルトに寝て暮らすよりは、園で栄養食を食べながら学校へ行った方がいいという空気が生まれるようになったのである。