〔PHOTO〕iStock

東大卒の養父から性的虐待…戦争孤児が回想する「奴隷のような日々」

知られざる「引揚孤児」のその後(4)

「どうしても駄目なら自殺します」

終戦の年の昭和20年の12月、神奈川県横須賀市の浦賀港に到着した引揚孤児たちを引き取るところから、春光学園の歴史ははじまった。その翌年には、横浜駅や横須賀駅にたむろする県内の浮浪児たちも送り込まれてくるようになった。

日本で児童福祉法ができたのは、昭和22年のことだった。この法律は、戦後の困窮する子供たちや孤児たちを救済するためにつくられたものだ。これによって、春光学園は児童養護施設となり、決まった生活扶助費を受けられるようになった。

だが、補助金だけでは子供たちにとって満足な生活環境を整えることはできなかった。

終戦から3年が経っても、日本の食糧事情は悪化したままで、米や肉といった食事は夢のまた夢、1日3度の食事がサツマイモだけということもあり、日によっては水芋といって煮ても焼いても食べられないようなものが出されることもあった。

そして、その食糧事情の悪さゆえに、子供たちは園を逃げ出したり、近隣の家から食べ物を盗む事件をくり返したりしていたのである。

春光学園の創設者の樋口宅三郎は、そんな状況を見かねて、横須賀市長のもとへ出向いて、配給の改善を直談判した。行政は子供たちをいつまで飢えさせるのかと強く迫ったのだ。

だが、日本全国が食べ物に困っていた時代。市長とて児童養護施設の子供たちだけを特別扱いするわけにはいかず、煮え切らない態度を取りつづけた。そもそも、市にだって食糧も財源もなかったのだ。

 

樋口はそんな市長に向かって言った。

「どうしても駄目なら仕方がありません。子供たちを見殺しにできませんから、一思いにみんな一緒に自殺します。しかし、ただでは死にませんよ。マッカーサー司令部に事情を訴えておいて死にます。私も一緒に死にます。親のない子など、日本では邪魔者、厄介者なんだ、死んだ方がよいんでしょう」

市長は樋口の強い言葉に動揺し、ひとまず福祉委員会に掛け合ってみることを約束した。