日本人の歪んだ「人権」感覚…護憲派も法曹界もその理解で大丈夫?

自衛権行使の口実にはなりません!
伊勢崎 賢治 プロフィール

「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」を第1条とする世界人権宣言は、全ての人間は、平等であるというコンセンサスを、全ての国家に共有させるものである。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html )

第二次世界大戦後、これが高らかに謳われたのは、それぞれの国家が国益をかけ国家の安全保障つまり自衛の名の下に戦い、結果、無辜の一般市民を大量に犠牲にしたことを人類が反省し、”敵味方の区別なく”、個々の人間の安全保障を希求したからである。

国民の人権を保障するのが国家の責任であることに異論の余地はない。しかし、世界人権宣言の「人権」とは、国民の人権が侵されるという理由で、その国家に自衛権を行使する口実を与えるものではない。

「自衛という名の国家の暴力」から人間を救済するのが「人権」であり、国家が自衛権の発動の口実に利用することは許されていないのだ。

 

自衛権の発動が許される時

自衛権の発動の口実を厳しく定義し制限してきた国際慣習法は「開戦法規」。通称、jus ad bellum(ユス・アド・ベルム)。現在では国連憲章第7章 第51条である。
https://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/ )

【個別的又は集団的自衛の固有の権利】は、唯一【国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合】に認められ、それも【安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間】という暫定条件付きである。

つまり、「国家」が武力攻撃を受けた時しか、その「国家」は自衛できない。

「個」に対する人権侵害ではない。「国家」に対する攻撃である。当たり前である。人権侵害だったら、国内、国外で、いくらでもデッチあげられる。

「国家」が武力攻撃を受けた結果、人が死ぬかもしれないが、ただの殺人事件がセンセーショナルに喧伝され、その国民の感情を鼓舞し「武力の行使」という政治決定に利用されないように、開戦法規はあるのだ。

「人権」は、開戦法規に、リンクさせてはいけないのだ。

人権への侵害が開戦法規上の「武力の行使」の口実になるのは、ただ一つ。国連安全保障理事会がその問題を取り上げ、【国際の平和及び安全の維持に必要な措置】として、全ての国連加盟国にアクションを呼びかける時のみである。国連平和維持活動PKOが一番わかりやすい。(参照:ゼロからわかるPKOの今 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49799 )

だから、もし、日本が、上記の歴代の日本政府の解釈に沿って、国連安全保障理事会の判断を待たず、”独自の判断”で、日本国民の人権侵害だけを口実に「武力の行使」を始めたら、それは明確な国際法(開戦法規)違反である。

拉致問題は人権問題であるが、それを「武力の行使」で解決せよ、とするのは、どこにでもいる極右の妄想なのだ。

開戦法規に抵触して「武力の行使」を行ったらどうなるか?

それは、9条ができる前から、国連憲章の第1章第2条が【すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない】と厳禁している「戦争」、つまり、その排除が国連(国際連合:United Nations【連合国】)そのものの目的である「侵略者」と見なされる。

日本がそれを犯したらどうなるか? 

国連憲章の「旧敵国条項」はまだ死文とはなっていない。日本は、世界で最も「武力の行使」がやりにくい国家であることを、保守、リベラルの立場を超えて、全ての日本人は再認識すべきだ。(詳しくは:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47229

以上の理由で、歴代の日本政府が生み出した、幸福追求権と平和的生存権(人権)を口実にする「9条の自衛権」は、国際法(開戦法規)に著しく抵触する。