ひきこもり者「親の遺体放置」多発の裏にある「小さなノーサンキュー」

一人ひとりの「拒否」が招く疎外
御田寺 圭 プロフィール

「小さなノーサンキュー」を超えて

この社会になにか巨大な悪意や差別心があったがゆえに、100万人のひきこもりが生じたわけではない。むしろきっかけは、私たちそれぞれが彼・彼女らに対して「小さなノーサンキュー」を繰りかえしてきたことにある。

 

なんとか社会へのつながりを持とうとしたひきこもり者に対して、私たちが露骨に排除のふるまいをすることはほとんどない。そうではなく、「あなたには、もっとふさわしい時期があるよ」「もっとふさわしい場所があるよ」「もっとふさわしい相手がいるよ」「きっと誰かが助けてくれるよ」「(でも、それはいまではないし、ここでもないし、私でもないから、どこかへ行ってほしい)」──そんな、だれも傷つかない、やさしいことばで「小さなノーサンキュー」を繰りかえしてきたのだ。

一人ひとりが行使した「拒否」は小さなものだったかもしれない。しかしそれを多くの人が行使した結果、「小さなノーサンキュー」が積もり積もって、やがて100万もの人びとを社会から不可視化する「大きな疎外」となっていったのだ。

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「ひきこもり問題」の解決のために、一人ひとりが自らの全リソースを投下して彼・彼女らを支えろ、というわけではない。私たちが「小さなノーサンキュー」を行使した結果こうなったのであれば、逆に一人ひとりが「小さな関心」を寄せれば、たとえ個々の力は小さくても、この問題がいまより深刻化することを阻止する力になるはずだ。

助けを求めようにも、その声の出し方すらわからなくなってしまった人にとっては、ほんの些細な関心が、たったひとつの声掛けが、大きな結果の違いをもたらしうる。自分が問題解決の当事者になれなくても、適切な情報につなぐくらいのことはできるかもしれない。私にも、そしてこの文章を最後まで読んでくれた、あなたにも。