ひきこもり者「親の遺体放置」多発の裏にある「小さなノーサンキュー」

一人ひとりの「拒否」が招く疎外
御田寺 圭 プロフィール

社会能力のなさが「罰せられる」

親が死んだときするべきことは膨大にある。あなたはそれらを知っていただろうか。上に一覧表を記したが、こんなにたくさんあること(しかもこれがすべてであるとはかぎらない)を知っていた人は少なかったのではないだろうか。

役所に「死亡届」を提出すればそれで終わるわけではない。年金受給資格の停止、介護保険の資格喪失届、住民票登録の抹消、相続税、遺族年金など、親が死亡した後の短い期間に処理しなければならない手続きはきわめて多い。

 

「社会のメンバー」ならば、こうした煩雑な手続きが膨大にあることは(たとえ細部まで完璧に把握してはいないにしても)見聞きする程度のことはあったかもしれないが、社会から永らく排除されてきた人にとっては、そうでないことが想像に難くない。

しかも、実際の親の死の直後から、それらを滞りなく遂行することは精神的にも時間的にも容易なものではない。多かれ少なかれ「周囲の協力者」がいることが前提となっている。基本的に、「だれかの死」は親類や友人、近隣の人びとが色々と手を焼いてくれるからこそ、なんとか乗り越えることができていたものだったのだから。

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これまで「社会のメンバー」として受け入れられておらず、また長年の環境から「周囲の協力者」も持たないであろう人間が、親を亡くして途方に暮れているところを「死体遺棄」「年金詐取」などで逮捕する。それはまさに、社会能力や社会的知識のなさを「罰している」構図に他ならないだろう。

私たちが、快適で安全で便利な暮らしを送るための「代償」を支払うことなく安穏と過ごしてきた結果、生じた歪み――その歪みによってつくられた「疎外者」たちに、今度は「犯罪者」というラベルを貼り直して、私たちはあくまで責任や解決にかかる負担を回避しようとしているのかもしれない。