ひきこもり者「親の遺体放置」多発の裏にある「小さなノーサンキュー」

一人ひとりの「拒否」が招く疎外
御田寺 圭 プロフィール

ひきこもりと「自己責任」

2000年代の初頭、ひきこもり者の増加が「ニート・ひきこもり問題」と名付けられ社会問題として認知され始めたころ、社会は「怠惰な若者に問題がある」とか「それを許容する家庭に責任(育て方・しつけの不備)がある」などとして、原因や責任をドメスティックな領域に引き取らせた。これらの解決を社会の責任とせず、表面上は不可視化することに成功してきたのだ。

そうすることで、世間の人びとはひきこもりを支えるための社会的な関心もリソースも割かずに済み、また当事者以外の個々人もひきこもりと関わらないでよいという、ある種の「快適な暮らし」を手に入れることができた。

ひきこもりは「社会が支えるのではなく、家庭が責任を取るべきだ」とするのが、日本社会の導き出した答えだったのだ。ひきこもり者を「社会のメンバー」としてはカウントせずに排除することを選んだのは、ほかでもない私たちだった。

 

そうしたふるまいを長年続けてきた代償として、現在になっていよいよ事が生じた際には「以前から彼らも社会のメンバーでした」といわんばかりの扱いで制裁するのは、あまりにもムシが良すぎるのではないだろうか。

普段は社会のメンバーでないかのように排除されていた人が、その排除の帰結としてなにか「悪い」ことをしたときにだけ、社会の正規メンバーと同等の責めを負わせることには、ことばにならないような違和感を覚える(逆に、平時は社会のメンバーとして包摂しているのに、いざなにかが起きたとき、特定の属性については責任が免除されるような扱いも同様だ)。

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親の遺体を放置したひきこもり者たちの「一人になるのが怖かった」「何も考えられなかった」という供述は、死体遺棄を正当化したり誤魔化したりするための方便というわけではなく、おそらく本心から出たことばであるだろう。

というのも「自分の家で親が死んだときに、どのような手続きをとらなければならないのか」は、まさしく「社会のメンバーとして包摂されていないと知ることのできない/実行できない『しきたり』」に他ならないからだ。