言論統制の「最前線部隊」が、講談社の雑誌を乗っ取ろうとした過去

大衆は神である(67)
魚住 昭 プロフィール

狙いは二つ!

鈴木は昭和15年(1940)9月20日の日記にこう書いている。

〈陸軍省情報部の解散に伴つて、大東研究所其他の人々の就職問題も考へねばならぬ。その善後策に就て、大熊氏と共に内閣情報部の久富[達夫](ひさとみ・たつお)氏と会合す〉註①

 

前に述べたように、内閣情報部が情報局に改組されるのは、これより3ヵ月後の12月のことである。それを区切りに陸軍省情報部は「解散」となり、嘱託たちの食い扶持もなくなることが決まっていた。

そこで鈴木は内閣情報部で何とかならないかと、情報官の久富達夫(のち情報局次長。戦後に国立競技場会長)に相談したのだろう。久富は元東京日日新聞政治部長で、城戸元亮の東日時代の部下であり、大熊武雄の先輩にもあたるので、頼みやすかったのだろうが、結果的にうまくいかなかったようだ。

それから講談社に対する鈴木の攻勢が激しくなる。鈴木や、鈴木の周囲に群がる人々の狙いは二つあった。一つは、言うまでもなく再就職先の確保である。もう一つは月刊誌『現代』を実質的に乗っ取ることだった。

もともと『現代』は“小学校卒業だけで大学卒業と同程度の学力が得られる”をキャッチフレーズに創刊された庶民向けの娯楽・教養雑誌だった。それを、インテリ層向けの総合雑誌に転換し、鈴木やその仲間たちの思想宣伝の道具にしようとしたのである。戦時中に『講談倶楽部』の編集長をつとめた萱原宏一が『私の大衆文壇史』に書いている。

〈鈴木さんの講談社改革の眼目は、詮じつめれば、「現代」の内容一新に集約される。鈴木さんを囲繞(いにょう)する人脈の中に、新世界観(ナチ流の一種の革新理論)を抱持する人が多くいた。彼はその新世界観を以って、「現代」を塗り潰したかったのである。ここに一つの拠点を築いて、逐次他の綜合雑誌に影響を及ぼしてゆく――これが鈴木さんの本願であったと思う〉

では、具体的にどうやって鈴木らは講談社を追い込んでいったのか。