戦争が生んだ「浮浪児たち」はなぜ施設から脱走を繰り返したのか

知られざる「引揚孤児」のその後(3)
石井 光太 プロフィール

園に残った子供たちも、朝から晩まで食べ物を手に入れる方法を考えていた。同級生の家の犬小屋にあったエサを盗んで食べる、ツバメやハトをとってきてストーブで焼いて食べる、学校の鍵をリサイクル店に売ったお金で食べ物を買う……。そんなことをして空腹を紛らわせていたのだ。

園を運営する樋口にとっても、食糧の悩みは常につきまとっていた。金城が言うように、園が食事を満足に提供できないがゆえに、せっかく受け入れた子供たちが次々と逃げ出してしまっていたのだ。そのことを樋口は次のように書き記している。

 養護施設の経営の根幹は愛情にあるが、その愛情はまず腹いっぱいの食事で裏ずけされねばならない。『先生、おらもう腹ペコだ、何か喰わして』『あゝもう三時だから、あと二時間で夕飯だよ』子供らにとってこの二時間のいかに長いことか。この子はきっとニ、三日中に学園から姿を消すのである。この時『そらふかしたてのサツマイモ一本』と与え得るなら、この子を青空の下に追いやらなくてすむのだ。
(原文ママ『人生の路地』)
 

浮浪児たちは、何ヵ月も駅の周辺で寝泊まりし、闇市で働いたり、盗みをしたりして、路上で腹を満たす術を知っている。だからこそ、園に来て空腹を強いられると、すぐに逃げ出して再び路上暮らしをはじめてしまうのだ。

開園から1年余りの間に、県や市から連れて来られた浮浪児の数は約120名。そのうちの80%の浮浪児たちが、空腹に耐えられず、園を脱走していったのである。樋口ら職員もまた、止めることができず、遠ざかっていく小さな背中を見つめるしかなかった。

ただ、園を抜け出した浮浪児たちのその後は決して楽なものではなかった。少なからぬ子供たちが、ヤクザや人買いに声をかけられ、闇社会へと引きずり込まれていったのだ。せっかく戦争を生き抜いた子供たちを待っていたのは、過酷な現実だったのである。

(つづく)