戦争が生んだ「浮浪児たち」はなぜ施設から脱走を繰り返したのか

知られざる「引揚孤児」のその後(3)
石井 光太 プロフィール

終戦から数ヵ月が経ち、だんだんと国が落ち着いてくると、行政は警察と協力して各地にいる浮浪児の検挙をはじめた。それは「かりこみ」と呼ばれていて、トラックやパトカーで道をふさいで一網打尽にして捕まえるのだ。その一部が、春光学園にも送られてきたのである。

こうした浮浪児たちが、収容所から直接引き取った引揚孤児と異なったのは、長らく路上で暮らしてきたことだ。引揚孤児は栄養失調のまま帰国して園に収容されていたが、浮浪児たちは長い間路上で暮らし、生きるためには泥棒や暴力もいとわないような生活をしていた。そのため、浮浪児たちは引揚孤児とくらべると、反骨精神をむき出しにして欲望のままに動いているような印象だった。

実際に当時の記録を見ると、浮浪児たちの破天荒な行動がわかる。外ではあらゆる悪事に手を染め、園につれてこられても数日で脱走していなくなる。中には20回も30回も脱走をくり返した者もいた。

 

浮浪児たちが脱走した理由

浮浪児たちが園に留まることを嫌がった背景には、当時の食糧事情があった。終戦後、日本は空前の食糧難に見舞われていた。それまで大陸や南方から移入していた食糧が途絶え、代わりに大勢の引揚者や帰還兵が日本にやってきて人口が膨らんだ。

さらに終戦から1ヵ月後の9月には昭和の三大台風の一つに数えられた「枕崎台風」が日本を縦断して農業に大打撃を与え、全国的な不作をもたらした。大蔵大臣の渋沢敬三に「このままだと来年は餓死者は一千万人を超える」とまで言わしめるほどの危機的状況だった。

日本全体がこうした状況に陥っている中では、春光学園に十分な食糧が配給されることはなかった。世間の人々は闇市へ行って、足りない分を高い金を払って補っていたが、貧しい施設にはそうした経済的な余裕はなかった。近所の人たちからわけてもらった芋をふかして食べさせるのがせいぜいで、子供たちは常に腹を減らせていたのだ。

引揚孤児の一人である金城助幸は次のように語る。

「食べるものなんてろくになかったよ。さらに芋が半分乗っていたり、何の植物かわからないような草がちょこっと乗っていたりするだけ。子供たちは育ち盛りだろ。だから、一日中食べ物のことしか考えないわけさ。みんな腹減ってな、どこそこへ行けば米が食えるらしいぞ、どこそこの畑なら盗めるらしいぞ、みたいな話ばかりしていた。

結局園を脱走する子たちだって腹を空かせてたんだよ。園にいるより、外で浮浪児やってた方がずっと腹が膨らむって考えて、すぐ脱走しちゃうんだ。子供にとって一番大切なのが食事なんだから仕方ないよね」