戦争が生んだ「浮浪児たち」はなぜ施設から脱走を繰り返したのか

知られざる「引揚孤児」のその後(3)
石井 光太 プロフィール

「もうみんな言葉にできない戦争体験を持っていましたよ。花園武さんはピケットでお母さんを空爆で失った後、3歳だった弟を背負って山中を逃げ回っていたようです。食べ物なんでないですから、そこらに生えているバナナを食べて飢えをしのいでいたとか。そんなある日、敵兵に囲まれてしまったそうです。9歳だった彼は、3歳の弟を木にしばりつけ、銃を持って兵隊さんと一緒になって戦ったといいます。

女の子で忘れられないのは、坂口スミ子さんですね。両親とも亡くなっていてうちに来たのですが、6個の骨壺を抱えていたんです。両親や兄弟がみんな死んでしまって、6個の遺骨とともにパラオから一人でもどってきたんです。お墓がないものだから、ずっとその骨壺を手元に置いてました。不器用でおとなしい子で、施設の人に怒られてもずっと黙ってうつむいている姿が印象的でした」

戦場で九死に一生を得た戦災孤児たちはみな、戦争体験によって心をえぐられるような傷を負っていた。それを考えれば、彼らが園に引き取られた後も、魂が抜けたように生きていたのは当然なのかもしれない。

ちなみに引揚孤児の中には、フィリピンのダバオ出身の者が多かった。これはダバオのジャングルを敗走している中で、親を失った子供たちが集まって集団化し、それが発見されて一度に引揚船に乗せられてきたためである。逆に言えば、戦場にはそのような孤児の集団が少なからずあり、帰国の途につけなかった者たちもあったのだろう。

悲しいことに、引揚孤児の中には心の傷が癒えず、自ら命を絶った者もいたそうだ。先の田中松江も園に来たばかりの頃、職員から「3日前に、うちの園の生徒が近くのトンネルで自殺した」と聞かされたという。戦争のトラウマは、敗戦の後も長らく子供たちの心にのしかかっていたのである。

 

浮浪児たちは闇市に集まった

開設から3ヵ月余りが経った昭和21年3月、園は神奈川県と横須賀市から一つの委託を受けることになる。「戦災浮浪児収容委託ニ関スル件」である。

終戦から半年余りが経ち、社会には引揚孤児だけでなく、日本国内で家族を失った浮浪児たちが散らばっていた。詳しくは、拙著『浮浪児1945‐戦争が生んだ子供たち』(新潮文庫)をご覧いただきたいが、日本では終戦の年の冬から夏にかけて全国の都市で米軍による空襲が行われた。これによって大勢の子供たちが家族を失い、孤児となっていたのである。

彼らの中には空襲から逃げる際に迷子になったり、親戚に引き取られたものの食糧不足で追い出されたりした者がいた。そういう者たちが路上で寝泊まりし、「浮浪児」と蔑まれながら物乞いや物売りをして生きていたのである。

浮浪児たちが集まるのは、大勢の人でごった返す闇市だった。神奈川県であれば、横浜、川崎、横須賀には大きな闇市ができていて、人や食べ物やお金があふれ返っていた。彼らは無賃乗車をくり返しながら闇市から闇市へ移って物売りや物乞いをして食いつないでおり、中には徒党を組んでスリやひったくりといった悪事をして生きている者たちもいた。