〔PHOTO〕iStock

戦争が生んだ「浮浪児たち」はなぜ施設から脱走を繰り返したのか

知られざる「引揚孤児」のその後(3)

殺害、栄養失調死、空爆死…

昭和20年12月、春光園(後に春光学園)は木造二階建ての旧海軍高等官宿舎で歴史の幕を開けた。ここは、フィリピンやサイパンやパラオといった中部太平洋や南方諸地域島から浦賀湾にたどり着いたものの、戦争で両親を失って住む場所がなくなった引揚孤児たちを引き取り、育てる施設だった。

開園の翌日、創設を主導した樋口宅三郎は、引揚同胞一時収容所(後の「鴨居援護所」)にいた30人余りの引揚孤児を引き取った。そしてその後も、足しげく収容所に通っては、身寄りのない子供たちの受け入れをつづけたのである。

記録によれば、引揚孤児の多くは未就学児から小学校の中学年くらいの年齢だった。そのため、子供たちの中には、親の名前はもちろんのこと、自分の年齢や名前すら言えない子もいた。運よく服に名札が縫い付けられていればわかったが、そうでなければ戸籍を一からつくらなければならないケースもあった。

園に引き取られた引揚孤児の大半は栄養失調に陥り、昼も夜もずっと横になっている状態だった。用を足す時ですら、職員の手助けが必要な子もいた。

 

連載2回目(ゲリラ兵が射殺、両親は自殺…戦時中、ある少女が味わった壮絶体験)で紹介した田中みや子の姉も、帰国後長らく健康がすぐれなかった。両親や兄をフィリピンで失い、なんとか姉妹二人で引揚船に乗って帰国したものの、姉は小児麻痺やマラリアの後遺症で思うように動くことができなかった。そこで職員が話し合った結果、姉だけ戸塚市にあった高齢者向けの保養所に入ることになったのである。

引揚孤児たちが長期の療養を必要としていた背景には、健康上の問題に加え、過酷な戦争体験からショック状態に陥っていたことも大きかっただろう。当時の名簿を見るだけで、彼らがどのような体験をしてきたか想像がつく。

ごく一部だが、記録を紹介したい。

 花園武(10)正(四)父は現地応召で消息不明、母は空爆死(ピケット)。
 田中三枝子(7)父は現地応召で戦死、歯はと兄弟三人は同地山中にて栄養失調死(ダバオ)。
 照屋米子(15)父は現地で比島人に殺害され、母は栄養失調死(ダバオ)。
 金城助幸(8)父母ともに同地山中にて空爆死(ダバオ)。
 大城ミサ子(8)父は現地で応召消息不明、母と姉妹三人弟一人が日本兵に銃殺された(ダバオ)。

殺害、栄養失調死、空爆死と簡単に記されているが、幼い子供たちの体験は一言でまとめられるものではない。後に園で働くことになる田中松江は、最初に挙げた花園武、正の兄弟について次のように語る。