「活字は弾丸、紙は大砲、雑誌は要塞だ」思想統制下の講談社の実像

大衆は神である(66)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦時中、出版・報道への統制を強めた軍部との「連絡役」をつとめた講談社社員の赤裸々な証言から、知られざる軍部の出版統制の実態が浮かび上がってくる。

 

第七章 紙の戦争──毒饅頭(2)

驚くほどあからさまに

萱原宏一と同期(昭和2年入社)の竹中保一が事実上の“鈴木庫三番”に指名されるのは、萱原が鈴木宅に頭を下げに行った直後のことだった。竹中はこの章の冒頭に書いたように、社史から抹消された「顧問料」の証言者である。しかし、彼は自分の証言が最終稿で削られたことを知らないまま、社史校了直前の昭和34年9月4日に亡くなった。享年57。

履歴を見ると、「『キング』『現代』編集部勤務。『海軍』編集長。特に戦時中、困難な軍官方面の連絡交渉に当った。戦後キング楽器製作所専務取締役」(講談社五十年史)とある。

竹中は戦時中、重要な役割を果たしたわりに出世していない。何があったのか。あるいは、軍部との濃密すぎる関係が災いして、戦後は講談社主流から外れたのだろうか。

竹中の証言は昭和31年(1956)10月と11月の2回、計5時間にわたり、収録されている。他の資料のようにインタビュー形式でなく、竹中の一人語りの録音速記である。

そのなかで竹中は驚くほどあからさまに、鈴木庫三との関係を話している。戦後の価値観からすれば、「日本思想界の独裁者」との親密さを語れば語るほど、自分自身が苦しい立場においこまれるはずなのに、そんなことを意に介している様子がまったくない。

もともと隠し事のできない性格なのだろうか。いや、それより、彼は自分の人生で最も華やかだった時代の出来事をつぶさに語ることで、自分が生きた証を遺したかったのではないか。もしかしたら、人生の残り時間があまりないことも意識していたのかもしれない。

連絡一本化の背景

さて、いよいよ竹中証言の全貌を紹介していこう。竹中のモノローグは、巨大出版社・講談社の戦時中のありようを赤裸々に描き出している。

――私は戦争中の昭和十五年九月から二十年五月にいたる約四年八ヵ月間、特に軍部を中心とした各官庁方面の連絡係をしておりましたので、当時の日記や記録によって、そのころの記憶を呼び起こしながらこれからお話ししたいと思います。

【1連絡係がなぜできたか】

私が連絡係を命ぜられた時期と動機について申し上げます。当時本社の雑誌がそれぞれ毎月取り扱う小説記事類には事変や軍事関係のものが多く、そのつど、陸軍省、海軍省その他などへ取材記事の指導を受けなければならなかったのです。

各雑誌からその記事の担当者がいちいち軍部の方へ連絡に行くのですが、本社には雑誌が多く、てんでんばらばらに行くものですから、今講談社の雑誌が帰ったと思ったら、次にまた講談社の他の雑誌が来るというありさまで、当局でもその応接に困り、どうしても講談社の雑誌全部を統一して連絡を一本にしたらどうかという要請がありました。

そこで軍部その他各官庁と本社との統一連絡係というわけで昭和十五年九月二十一日、編集局総務部に籍を置いていた私が仰せつかったわけであります。