サンフランシスコ講和条約締結に臨んだ吉田茂(撮影/三木淳)

日本人初の国際的報道写真家が、この国に残した「大いなる功績」

日本のカメラを世界に広めた男

戦後日本の報道写真家の草分けで、アメリカを代表するグラフジャーナリズム誌だった「LIFE」誌で、初の日本人専属写真家として活躍した三木淳(1919-1992)の、生誕100年を記念して、ニコンプラザ新宿THE GALLERY(9月10日~30日)、ニコンプラザ大阪THE GALLERY(10月10日~23日)で企画展『生誕100年記念 三木 淳 写真展 Happy Shooting Every Day of Your Life!』が開催される。

「LIFE」の表紙を飾った、サンフランシスコ講和会議に臨む吉田茂総理のポートレートは有名だ。また朝鮮戦争にも従軍、来日する米写真家に日本製カメラを使わせ、日本がカメラ王国になるきっかけをつくった功労者でもある。しかし、没後27年、いまやその名を知らない人も多い。写真家・三木淳とはどんな男だったのか。

 

敗戦国日本のプライドを懸けた写真

昭和26(1951)年9月4日から、アメリカ・サンフランシスコ市のオペラハウスに52ヵ国の代表が参集し、第二次世界大戦の対日講和会議が開催された。日本の全権代表は、内閣総理大臣・吉田茂。9月8日、参加国の大半と日本との間で講和条約が締結され、条約が発効する昭和27(1952)年4月28日をもって日本は主権を回復、戦後、長く続いた占領軍による統治に終止符が打たれた。

サンフランシスコ講和会議に先立って発売された、アメリカ最大の発行部数を誇るグラフジャーナリズム誌「LIFE」(1951年9月10日号)の表紙を飾ったのは、葉巻をくわえた吉田総理の、敗戦国の代表らしからぬ堂々たる表情をとらえたポートレートである。

三木淳が撮影した吉田茂総理の写真が表紙を飾った「LIFE」1951年9月10日号

この写真は、「LIFE」アメリカ国内版520万部、国際版150万部の表紙をはじめ、「LIFE」のパンフレット、広告、ダイレクトメール等、1500万枚とも1800万枚ともいわれる膨大な数が印刷され、〈吉田茂は「東洋のチャーチル」と呼ばれている。彼は葉巻を好み……〉という解説文とともに、世界中の人々が目にした。

多くの国で、テレビ放送もまだ始まっていないこの時代、時事問題に関する視覚情報は、事実上、新聞、雑誌に掲載される写真かニュース映画しかない。グラフジャーナリズムの持つ影響力は、インターネット時代のこんにちでは想像もつかないほど大きいものがあった。この1枚こそが、「吉田茂」のイメージを国際的にも決定づけ、日本にとっても恰好のPRになったと言っていい。

この、歴史に残る写真を撮影したのが、三木淳(撮影当時31歳)である。三木はのちに、

「敗戦国日本の総理大臣が、各国代表の集まった場で裁きを受ける、一種のお白州のようなところに出かけて行かれる。みっともない姿を撮ると国際関係にも悪影響を及ぼすのではないかと思い、なるべく吉田総理を立派に撮って、戦争には負けたけども日本人は臆していない、立派に生きているんだ、ということをその顔に象徴させたいと思った」

と、回想している。

三木は大正8(1919)年9月、岡山県児島郡藤戸村(現倉敷市藤戸町)に生まれた。

18歳の頃、創刊まもない「LIFE」を見て、当時、日本の写真界の潮流だった花鳥風月をめでるような情緒的表現とは正反対の、リアリティを追究した表現に感銘を受ける。写真に秘められた可能性に惹かれて写真家を志し、いつかは「LIFE」の仕事をしたいと願うようになった。

慶應義塾大学在学中から写真家・土門拳に師事。昭和18(1943)年、繰り上げ卒業とともに野村合名に就職、傘下の野村貿易に配属されたが、この世代の若者の宿命として陸軍に召集。西部軍経理部に勤務し、福岡県の筥崎宮の境内にあった自動車修理工場の責任者になったとき、そこで労役を課されているアメリカ軍捕虜たちが、赤十字を通じて入手する「LIFE」をむさぼるように読んでは、写真家たちの活躍に胸を躍らせたという。