「在野研究」はいまなぜブームなのか? 大学の外から学問する面白さ

凡人なりの攻め方、楽しみ方がある
荒木 優太 プロフィール

生産物は消費者に届けられねばならない。別言すれば、完成した生産物が流通し受容される後々の過程までもふくめて研究という営みが成り立っている。酒井的な、または逆卷的な問題意識を私なりに勝手に要約してみれば、こんな感じかもしれない、「成果物が多すぎる! で、それを受け取る側ってどうなってるの?」。

 

学問の限界で

研究の花のようにみえる論文は、それを支え、さらには種を受けとめ、次の花を準備する土壌、コミュニティ/コミュニケーションがあって初めて安定化する。

文章よりも口語的なコミュニケーションを重視した鶴見俊輔ならば「限界学問」としてこれを見出すかもしれないが、鶴見が「限界学問」と書くときその典型をなしたのがサークルという人との付き合いのなかで自然発生する小集団の知の伝達のあり方だったことは改めて注目していい。

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鶴見は同じことを「思想の発酵母胎」という言葉でも捉えていた。それは学問と非学問の境界線に立たされながらも同時に、学問の活気を根底で支える原初的な基盤でもある。このことの与える示唆は深い。

第一に、研究という営みにとって、研究者というプレイヤーよりも、もしかしたらオーディエンスのほうが本質的な役回りを果たすのではないか、ということ。専門書を買って読む、シンポジウムに参加してみる、それらの感想文を書いて発表する……これらも立派な研究活動として、少なくとも在野研究活動として捉え直すべきだ。低コストな宗教研究を目指す星野健一(第九章)は書評や紀要の経年調査を勧めている。

第二に、研究的関心は必ずしも論文に結ばれねばならないわけではなく、より多様なかたちがありうる、ということ。たとえば文学者の縁者に話を聞きに行き、それを資料として残しておく内田真木(第八章)の仕事や、『ビギナーズ』所収のインタビューで国会図書館司書の小林昌樹が一瞬触れている、公的には保存されにくいもののコレクターが研究者に転じる可能性などは制度が要求する業績=論文第一主義を解除してくれよう。