マラソンの名勝負「1979年の瀬古vs宗兄弟」デッドヒートを語る

本人が振り返った
週刊現代 プロフィール

二宮 競技場には猛さんを先頭に、3人がなだれ込むように入ってきました。そして、残り200mから瀬古さんがスパートし、必死に食い下がる二人を振り切って、そのまま先頭でゴール。2秒差で茂さん、さらに、3秒差で猛さんが続いた。

瀬古 「スピードでは負けない」という自信がありましたから、二人に追いついた時点で「勝った」と思いました。でも、本当に苦しかった。マラソンは最後まで諦めちゃいけないということを教えられたレースでした。

 レース後は、弟と抱き合って喜びました。五輪出場という第一の目標を達成したことがなによりうれしかったのです。ただ、振り返ってみると、あのとき弟がもっと早めにスパートして逃げていたら、たぶん結果は違っていたでしょうね。

瀬古 ええ。30km過ぎでスパートされていたら、ついていけなかったと思います。調子のいいときにスローペースで走らされると、イライラしてスタミナを消耗してしまいます。あのときの猛さんもそのパターンにはまったと思う。

 やっぱり代表選考レースだから失敗できないんですよ。ましてや弟は3年前のモントリオール五輪の代表選考レースで失敗していたので、すごく慎重になっていました。

二宮 しかし、レース後、ソ連がアフガニスタンに侵攻。結局、日本はモスクワ五輪をボイコットすることになり、内定した代表の座は幻となってしまいました。その後も3人は'80年や'83年の福岡国際などで激闘を繰り広げ、'84年のロサンゼルス五輪にも揃って出場します。ただ、タラレバの話ですが、もし3人がモスクワ五輪に出ていたらメダル二つぐらいは獲れたような気がします。

 メダルを獲れたかどうかはわかりませんが、もしモスクワ五輪に出場していたら、ロス五輪の結果は違っていたでしょう。ロスでは3人が3人とも暑い中で練習をやり過ぎて、疲労困憊の状態でレースをした結果、失敗しました(猛が4位、瀬古が14位、茂が17位)。モスクワを経験していれば、あんな失敗はしなかった。それだけは自信を持って言えます。

瀬古 マラソンを自由自在に走れた時期でしたし、'79年のあのレースで苦しい思いをしたので、もしモスクワに出場できたらたぶん絶好調だったと思います。出場できなかったことで、歯車が狂ってしまいました。
 当時の瀬古さんは、「瀬古が勝たないで誰が勝つんだ」というぐらい強かった。でも、結局、オリンピックの女神は降りてきませんでしたね。

二宮 それでも瀬古さんは'70年代後半から'80年代の後半まで日本のマラソン界を牽引しました。これだけ息の長い選手はもう出てこないような気がします。

瀬古 最大のライバルであり、目標だった宗さんたちがいたから自分がある。いま振り返って、そう思います。お二人には本当に感謝しています。

瀬古 利彦(せこ・としひこ)/'56年生まれ。早大競走部でマラソンを始め、通算15戦10勝の驚異的成績をあげる。現在はDeNAランニングクラブのエグゼクティブアドバイザー
宋 茂(そう・しげる)/'53年生まれ。高校卒業後、旭化成陸上部に所属。一卵性双生児の弟の猛とともに日本男子長距離走界をリード。現在は宮崎で「宗茂気功健康塾」を運営
二宮 清純(にのみや・せいじゅん)/'60年生まれ。スポーツ・ジャーナリスト。陸上競技、野球、サッカーなど国内外で幅広い取材活動を展開。著書に『スポーツ名勝負物語』など

『週刊現代』2019年8月24・31日号より

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