マラソンの名勝負「1979年の瀬古vs宗兄弟」デッドヒートを語る

本人が振り返った
週刊現代 プロフィール

瀬古 私も調子が悪かったので、茂さんがスタートから飛ばした前年のようなレースになったら困るなと思っていました。「ゆっくり行ってくれ」と願っていたら、その通りの展開になったので本当にラッキーでした。

 あのときの調子で5km15分ペースは厳しいが、15分30秒ペースならば大丈夫だろうと想定していました。実際、10kmを30分58秒で通過できた。

二宮 そのスローペースの中、予想通り15km付近で大久保初男選手が抜け出しました。

瀬古 はい。大久保選手は他のレースでも前半飛び出して失速していたので、「そのうち落ちてくるだろう」と気にはなりませんでした。

二宮 当時、日本記録は茂さんが持っていましたが、瀬古さんから見て、茂さんと猛さんのどちらが、より強いと考えていましたか?

瀬古 両方強いと思っていましたよ。しかも、こちらは一人で戦わなくてはいけないが、そちらは二人。心理的にもこの差は非常に大きい。ただ、普段から練習をこなせるのは猛さんのほうだと聞いていたので、最後まで残っていたら猛さんが怖いなと思っていました。

 ええ。自分は肉体的なスタミナはあるのですが、精神的なスタミナが欠けていた。弟はその両方を兼ね備えていました。

二宮 大久保選手が24kmで先頭集団に吸収されると、今度は有力選手の一人だった伊藤国光選手が30km付近で飛び出します。

 スパートには、勝負に出るスパートと、苦しいから我慢できなくなって飛び出すスパートがあります。この時の伊藤選手のスパートは後者だと思いましたので、無理に追いかけることはしませんでした。

二宮 そういうときは、近くを走る選手の表情をうかがったり、呼吸音を聞いたりして、相手の状態を探ると聞きます。

瀬古 ええ。たとえば、茂さんと猛さんは双子の兄弟でも、呼吸の仕方が少し違います。
茂さんは意外と静かですけれど、猛さんは呼吸が荒いんですよ。その呼吸を聞きながら調子をうかがっていました。

メダル二つは獲れた

二宮 35km手前で武富豊選手、その直後に伊藤選手が脱落。ついに日本人選手は、瀬古さんと宗さん兄弟の3人になりました。そして、40kmを過ぎると満を持して猛さんがスパート。粘っていた英国のフォード選手も遅れて優勝は3人の争いに絞られました。

瀬古 一気に30mぐらい離され、「やられた」と思いました。正直、「3番狙いかな」と覚悟した。

 瀬古さんが離れていったとき「瀬古も苦しいんだ。猛がこのまま逃げ切るな」と思いました。私も肉体的に限界でしたが、懸命に前を追い、なんとか弟に追いつきました。すると猛が「もう目一杯だから、前に行ってくれ」と言うんです。しかし、私も弟に追いつくのが精一杯だったので、「いや、俺も行けない」と答えたんです。すると、いったん離れた瀬古さんが追いついてきた。

瀬古 二人が同時に私のほうを振り向いたんです。それを見て、「俺もきついけれど、前もきついな。ちょっと我慢していたらまだチャンスがあるぞ」と息を吹き返しました。

二宮 自分に余裕がなくなってきているから、しんどいと、つい相手を見てしまう。

瀬古 そうです。後ろを振り返るのはしんどいときが多い。あの状況で二人とも振り返ったということは、二人とも足に疲れがきていると直感した。

 競技場に入る手前の坂で瀬古さんに追いつかれたときは負けを覚悟しました。瀬古さんは絶対的なスピードを持っていたので、トラック勝負になったら厳しいことはわかっていましたからね。グラウンドに入ったときの大歓声はいまでも忘れられません。

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