マラソンの名勝負「1979年の瀬古vs宗兄弟」デッドヒートを語る

本人が振り返った
週刊現代 プロフィール

秒単位の駆け引き

瀬古 僕も同じでした。東京に冷たい雨が降った冬のことです。翌日は晴れの予報だったので、その日に予定していた40km走を、「明日じゃダメですか?」と、中村監督に尋ねたことがありました。すると、中村監督は、「天気予報では宮崎は晴れているぞ。宗兄弟は今日40kmを走っているかもしれない」とピシャリ。いつも二人を意識して、練習していました。

また、中村監督からは宗さんたちと話すことも禁止されていました。「おまえが何を考えているのかわからないような状況にしておきなさい」と。

二宮 舞台裏では、そんな心理戦もあったんですね。

 中村監督は、明るくおしゃべりな瀬古さんの本来の姿を見せず、カリスマ性を高めることが狙いだったのでしょう。

週刊現代より

二宮 当時、瀬古さんには求道者や修行僧のイメージがありました。マスコミに対しても、あまり多くを語らなかった。

瀬古 中村監督から「余計なことはしゃべるな」と釘を刺されていました。

二宮 そうしてお互いに切磋琢磨しながら、世界で戦える力をつけていったわけですね。そして、いよいよ'79年の福岡国際を迎えます。

瀬古 実は試合近くまで練習をし過ぎてしまい、レース当日は絶不調だったんです。呼吸をすると、息がスッと入っていかず、詰まるような感じがありました。調子が悪いといつもそうなるのです。

 

 体調が悪かったのは私も同じです。本番の4日前に最終調整をやったところ、体が動かず、15kmやる予定を10kmで止めてしまいました。

二宮 猛さんの調子はどうだったのですか?

 弟は絶好調でした。直前の調整でも予定通り15kmを45分ぐらいでスッと走りました。

二宮 瀬古さんと茂さんの二人は調子が悪く、猛さんだけが好調だったわけですね。

 はい。ただ、助かったのは、当時はペースメーカーがおらずスタートから駆け引きができたことです。調子が悪いときにハイペースの展開になったら対応できません。だから、いったん自分が先頭に立ってペースを落とし、それから集団に下がるというレースプランで臨みました。私は自分でレースを作っていくということをよくやっていましたから、誰も私の前に出ようとしなかった。

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