半グレも警告するが…日本社会から「覚せい剤」がなくならない理由

社会的孤立はより深刻な問題だ
廣末 登 プロフィール

昭和23年のある日のこと、モロッコと田中(井上の舎弟)は、一銭のカネも持たずに、神奈川県湯河原町の旅館「静山荘」に開帳している賭場に出かけた。賭場で、モロッコはスミス・アンド・ウエッソンと、コルトを抜き、田中も拳銃を抜いたといわれている。

モロッコは、盆の上に拳銃を置き、5千円を貸すように要求した。その場に居合わせた稲川角二(後の稲川会会長の稲川聖城)が、100円札の束を出口に渡し、賭場荒らしを止めるように諭したため、モロッコと田中は、大人しく帰ったと伝えられている。

その事件を機に、モロッコは稲川角二に心酔し、様々な出来事の末、昭和24年の春、仲間の愚連隊と共に、稲川角二と親子の盃を交わすに至り、同年6月に熱海市咲見町に稲川興業の看板が掲げられた。稲川会の屋台骨を作ったモロッコであったが、昭和30年1月30日に肺結核で死去。享年は33歳、あるいは34歳と言われている。

この時、モロッコの骨は、ヒロポン(戦時中から戦後にかけて普通に市販されていた覚醒剤の一種のこと、疲労がポンと飛ばすことから俗称ヒロポンと呼ばれるようになった。正しくはギリシャ語の「ヒロポナス=労働を愛する」が語源という説がある)中毒の影響で、お骨の取り上げの際、ボロボロに崩れてお骨上げができなかった。

 

石井進(稲川会二代目会長、1972年に山口組若頭・山本健一と五分の兄弟盃を交わした)は、泣きながらモロッコの骨を握りしめ、骨壺に収めたという話が口伝されている。以来、覚醒剤のことを「骨までしゃぶる」からシャブというようになったと伝えられている。

筆者はこの話を、京都の組織で本部長をしていたKさんから聞いた。

覚せい剤の恐ろしさを、リアルに伝えるエピソードだけに、筆者は大学の講義「社会病理学」の受講生には、必ずこの話をするようにしている。

「身体に悪いから」などと、通り一遍の話をしても、本当のヤバさは伝わらない。「具体的に、覚せい剤を摂取すると、どうなるのか」ということを、若い人たちには理解していただきたいからである。