Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く

JPOPと「クィア・リーディング」の可能性
阿部 幸大 プロフィール

愛の告白と「責任」の問題

「Pretender」の歌詞をくわしく読んでみよう。以下は1番のBメロの歌詞である。

もっと違う設定で/もっと違う関係で
出会える世界線/選べたらよかった
もっと違う性格で/もっと違う価値観で
愛を伝えられたらいいな/そう願っても無駄だから

もちろん、恋愛がうまくいかないときに「〜じゃなかったら(上手くいったかもしれないのに)」と考えてしまうのは、失恋者のごく一般的な傾向である。

だが、この語り手──彼はイケメンなのだ──の絶望と諦念は、「世界」や「設定」の話に踏み込んでおり、妙に根源的である。彼には、そもそも自分の恋愛が成立する条件が世界から根本的に欠落していると感じられているのだ。もし彼の恋する女性が別の男性のことを好きだという悩み、あるいは片想い以上に関係が発展しないという悩みなら、このような反実仮想には至らないだろう。

 

つぎは2番のAメロである。

誰かが偉そうに/語る恋愛の論理
何ひとつとして/ピンとこなくて
飛行機の窓から見下ろした/知らない街の夜景みたいだ

ここで主人公と「世界」の懸隔はいっそう深まる。「誰かが偉そうに/語る恋愛の論理」を、ひとまず異性愛者による一般論だと見なすことができるとすれば、彼にとっては、そのすべてが「飛行機の窓から見下ろした/知らない街の夜景」のように、あまりに遠く、絶対的に無関係なものに感じられてしまう。彼の恋愛は地上と交わることのない、はるか上空の論理にしたがっているのだ。

さらに、2番のBメロでは、

いたって純な心で/叶った恋を抱きしめて
「好きだ」とか無責任に言えたらいいな
そう願っても虚しいのさ

このような歌詞が現れる。ここでは、恋人に「好きだ」と伝える行為が「無責任」と形容されている。なぜ彼にとって「好きだ」と言うことは「無責任」なのか? あるいは別の言い方をすれば、なぜ彼は、ある人は「好きだ」と言えて自分は言えないと考えるとき、その理由を、たとえば勇気の有無などではなく、「責任」という次元に求めるのだろうか?

それは同性愛者の告白が、告白する者だけでなく、される者にも、そして周囲の人間関係にも、異性愛の告白とはスケールの異なる影響を及ぼしうる行為だからであるだろう。登場人物を7人にした理由のひとつは、共通の友人の存在が告白をいっそう困難にするためだと思われる。

あらかじめ相手も同性愛者だと判明していないかぎり、同性愛者は、みずからの告白によって相手がなんらかの「迷惑」を被る可能性をつよく意識してしまう場合がある。異性愛の告白とは別次元の配慮、それが「責任」の正体だ。

「いたって純な心」という表現に、異性愛の単純さという皮肉なコノテーションを聴き取らないことは、もはや難しい。