ゲリラ兵が射殺、両親は自殺…戦時中、ある少女が味わった壮絶体験

知られざる「引揚孤児」のその後(2)
石井 光太 プロフィール

昼がすぎ、ようやく次女が立ち上がり歩きはじめた。だが、どこへ逃げていいかわからなかった。山は2メートルくらいの草が生い茂っていて、幼い2人の行く手を遮っていたのだ。

「ダメだ。もどろう」

次女のそんな言葉に従い、みや子は元来た道をもどりはじめた。すると、そこで待っていたのは米軍だった。みや子と次女は殺されると思ったが、日本語のしゃべれる日系の米兵が「大丈夫だよ」と手を引いてくれた。

こうして2人は逃避行を生き延び、終戦まで米軍キャンプですごすことになったのである。

 

帰国の意味もよくわからないまま

約1ヵ月半後の8月15日、フィリピンの米軍キャンプに日本の無条件降伏の知らせが届く。

米軍キャンプで、みや子は次女とともに暮らしていた。捕虜が収容されているところとは別の宿舎で寝泊まりさせてもらっていたのだ。いつもお菓子をくれる日系人の兵士がやってきて、こう言った。

「日本は戦争に負けたよ。この国にいたら危ない。私たちが手配するから日本に帰りなさい。いいね」

晩秋の11月、ようやく日本へ帰る船が見つかったと言われた。筑紫丸という船で、もともとは貨客船だったが、終戦後はマニラと浦賀港を結ぶ復員船や引揚船としてつかわれていた。

みや子は次女ともにジープに乗せられてマニラ湾まで行き、そこで赤い着物をもらって船に乗り込んだ。同じ引揚船にいた大人から後で聞いたところによれば、帰国の意味もよくわからず、着物を着て飛び跳ねたり、走り回ったりしていたという。

浦賀港に到着した後、みや子と次女は身元確認を受けた。両親はすでに死亡し、戦争に駆り出された兄らの行方はつかめなかったため、引揚同胞一時収容所で引揚孤児として暮らすことになった。

そこに救いの手を差し伸べたのが、樋口宅三郎だった。そして彼はみや子と次女の手を握り、春光学園へつれていったのである。それが連載の第一回で述べた、春光学園の長い歴史のはじまりだった。

次回の連載第3回では、春光学園の生活に光を当ててみたい。

(つづく)