ゲリラ兵が射殺、両親は自殺…戦時中、ある少女が味わった壮絶体験

知られざる「引揚孤児」のその後(2)
石井 光太 プロフィール

「いつになったら帰れるんだろう」

太平洋戦争がはじまって間もなく、日本軍はフィリピンから連合軍を放逐して占領することに成功した。だが、戦況が逆転するにつれて連合軍はフィリピンを奪還するために迫ってくる。そんな連合軍と日本軍が、マニラの市街地で激突したのは、終戦の年の昭和20年の2月のことだった。

みや子によれば、その前年の末から、日本人街の日本人たちの間で「いよいよ連合軍との戦闘がはじまる」という噂が広まっていたという。東南アジアでは日本軍が次々と戦闘に破れていたことから、フィリピンも時間の問題という認識があったのだろう。

12月のある日、マニラに暮らす日本人たちに「戦闘が近いので町を離れるように」という通達が出された。庶民たちはわずかな手荷物を抱えてマニラを離れることを決め、みや子も一緒に暮らしていた母親、次女、五兄と4人で避難を開始することにした。

他の兄たちは召集令状をもらって戦争に出ており、父親は日本領事館の総領事と囲碁仲間だったことから、自分だけ逃げるわけにいかないとマニラに残ることを決めた。後から聞いた話では、領事館で食糧集めなどの任務を担っていたそうだ。

 

みや子は語る。

「家を離れたのは、雨が降る日のことでした。最初は一時避難と言われていたので、あまり物を持ってきませんでした。そのため、避難生活が長引くとすぐに、持参した食べ物は底をついて、現地調達しなければならなくなりました。

最初はマニラを出て別の町へ向かったようです。同じように逃げてきた日本人がたくさんいました。はっきりとはわかりませんが、数百人とか数千人だと思いますよ。町で物を買ったり、他の日本人からわけてもらったりして暮らしていました。

この頃は、いつになったら帰れるんだろうって常に考えてましたし、お姉さんにも話していました。帰れる日が来ると信じていたんですね」

2月に入ると、マニラでは本格的な市街戦がはじまり、1ヵ月の戦闘の後に、日本軍は敗北して、マニラを捨てて逃げることになる。マニラでは巻き込まれた10万人の一般市民が犠牲になり、連合軍は逃走する日本兵を追いはじめた。

これによって、先にマニラを離れていた一般市民たちもさらなる逃避を余儀なくされる。後に、みや子は自身が辿ったルートを後に調べて明らかにしている。それによれば、マニラからサンホセ、そしてバヨンボンに一時避難した後に、ソラーノへ向かったという。

このソラーノが最後に暮らした町となった。ソラーノに集まっていた日本人たちは家を見つけ、食べ物や毛布の貸し借りをしたり、毎日点呼を取って無事を確かめたりして生きていた。みや子の一家も小さな家を借りていた。