戦後のマニラの風景〔PHOTO〕gettyimages

ゲリラ兵が射殺、両親は自殺…戦時中、ある少女が味わった壮絶体験

知られざる「引揚孤児」のその後(2)

戦時中、マニラで暮らした日本人移民たち

終戦の年の昭和20年12月、神奈川県横須賀市にできた春光学園(当時・春光園)には、大勢の引揚孤児たちが引き取られた。

前回(日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態)述べたように、地元の浦賀港にはフィリピンやサイパンやパラオといった中部太平洋や南方諸地域島から大勢の引揚孤児たちが集められていた。彼らの大半は栄養失調に陥り、中には命を落としている者もいた。

それを見かねた神奈川日日新聞(現・神奈川新聞)の元社長であり、横須賀隣人会の理事だった樋口宅三郎が、園を創設して引揚孤児たちを引き取ることにしたのである。

では、孤児たちは太平洋の島で、どのような戦争体験をし、戦災孤児として浦賀港に引き揚げてきたのか。ここでは、春光学園に暮らしていた田中みや子(79歳)の体験を紹介したい。

 

田中みや子は、昭和15年生まれで、フィリピンのマニラで生まれ育った。

当時のマニラには日本人街がつくられ、日本人移民が数多く暮らしていた。明治時代に移住してきた家族も少なくなく、みや子のような移民二世もたくさんいたのだ。

みや子の父親は、大正9年に故郷の佐賀県からやってきて、日本人街で理髪店を営んでいた。妻も同郷の出身だった。マニラには整髪剤のポマードがなかったことから、父親は移住後も買い付けのためによく佐賀県に帰っていた。その時に知人から紹介されたのが母親であり、マニラで結婚式を挙げたという。

両親の間には8人の子供が生まれ、みや子は三女の末っ子だった。終戦の年は5歳だったが、戦後に生き残ったきょうだいから話を聞いたり、成人した後に何度も戦没者慰霊巡拝でマニラへ行って当時の自分を知る人々から話を聞くなどして個人史を確かなものにしている。以下、それをもとに人生をたどりたい。