餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態

知られざる「引揚孤児」のその後(1)
石井 光太 プロフィール

絶望的な状況からのスタート

昭和20年12月1日、春光学園は正式に開設された。会長には横須賀隣人会の会長代理の阿部を据え、樋口は理事として実務に携わることになった。

翌12月2日、さっそく樋口はトラックで引揚同胞一時収容所に乗り付け、収容されていた30人あまりの子供たちを荷台に乗せて園につれてくる。到着後、荷台の子供を一人ひとり抱き下ろしたが、ちゃんと地面に立つことのできる子供たちはいなかった。栄養失調のため、地面に下ろした途端に崩れ落ちるようにすわり込んだり、倒れたりするのだ。玄関までのわずか2メートルほどの距離を自力で歩いてたどり着けたのは、わずか3人だった。

 

帰国した当初のことを、当時6歳だった少女は次のように語っている。

「日本に帰った時はとにかく寒くて寒くてならなかったのを覚えています。私はダバオから来ましたら、日本の冬が氷水を浴びているみたいで寒くて、日中でもガタガタと体の芯から震えが起ってくる。その上、これからどうなるのかわからないでしょ。その不安もあったと思います。とにかく、これからどうなるのかが怖かった」

樋口の目にも同じように映っていたようだ。園に来た子供たちは、来る日も来る日も無言で震えているだけで部屋の外へ出ようとしなかったという。布団にもぐり込み、放心したようにただ天井を見上げているばかりだった。

樋口は次のように記している。

 その目に何が映っていたのだろうか。生まれ故郷の南洋の島々か、その島に砲弾、爆撃で一片の肉、一本の骨も残さずに散華した父母兄弟の面影か、砲弾を逃れて、山中に左右に愛児を抱きながら、飢餓のうちに野倒死した父母の苦悶の姿か。
 私は慰める言葉も、あやしてやるすべも知らずに茫然と眺めて一と月あまりをすごした。

こうした子供たちを育てるのは、決して簡単なことではなかった。子供たちの心の傷は、今でいえば戦争のPTSDだ。そんな言葉の概念さえなかった時代、樋口らは手探りで子供たちの崩壊寸前の精神を支えなければならなかった。

また、感染症も蔓延していた。子供たちは皮膚病である疥癬(かいせん)によって全身を侵されていたため、職員が抱いて硫黄風呂に入れてあげなければならなかった。だが、その職員たちにも瞬く間にそれが感染し、手足から血が滲み出て苦しむようになった。

春光学園の出発点は、まさに子供たちの心身の病が職員にまで蔓延していく絶望的な状況にあったといえるだろう。それでも樋口はさらなる引揚孤児たちの救出に乗り出すだけでなく、路上で寝起きしている浮浪児たちにも手を差し伸べ、園を児童養護施設として発展させていくのである。

(つづく)