餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態

知られざる「引揚孤児」のその後(1)
石井 光太 プロフィール

死に瀕した子供たちを救うには

日本が連合軍に対して無条件降伏をし、玉音放送が流れた日、樋口は43歳になっていた。彼はすでに新聞業界の第一線を退き、戦後の混乱の中で生活に苦しむ人々の支援に携わっていた。横須賀隣人会は、主力事業として行っていた兵服縫製の仕事が失われたことで、託児所を主とした子供の福祉事業に力を入れる方針を決めていた。

そんな中、地元の浦賀港ではじまったのが引揚者の受け入れだった。戦後に太平洋の島々や大陸から引き揚げてきた人たちは、港に設置された施設で殺虫剤であるDDTの粉を全身にふりかけられ、検疫検査などの身体検査を受けた。身元が明らかになり、検査等で問題がなければ、それぞれ汽車に乗るなどして地元へと帰っていった。

しかし、異境の地で戦火によって親を失い、一人で帰国してきた子供たちは行く当てがなかった。日本に親族がいるかどうかもわからないし、いたとしても混乱で連絡が取れなくなっていた。そんな子供たちが収容されていたのが、引揚同胞一時収容所だった。

 

ある日、樋口は次のような噂を耳にする。

「大勢の引揚孤児たちが施設に集められ、食べ物もないような状態に置かれているらしい」

樋口は半信半疑で新聞記者を引き連れ、引揚同胞一時収容所の視察に行くことにする。そこで目にしたのは、冒頭で述べたような、栄養不良から痩せこけ、立つことも、しゃべることもできなくなってうずくまっている子供たちの姿だった。日本の港にたどり着いたものの、栄養失調で命を落とした子供もいるらしい。

――このまま放っておけば、今いる子供たちも、これから引き揚げてくる子供たちも同じような末路をたどることになる。

樋口は即座に子供たちの救出に動きだすことを決意する。その日のうちに横須賀隣人会の会長代理だった阿部倉吉に話をつけ、理事会の招集を二の次にして引揚同胞一時収容所の孤児たちの救出に着手したのだ。それだけ多くの子供たちが死に瀕していたのである。

問題は、引き取った子供たちをどこに住まわせるかということだった。樋口が目をつけたのが、横須賀市内にあった2階建ての旧海軍高等官宿舎だった。この建物(455.25坪)と倉庫(6坪)を関東財務局から借り、引揚孤児収容所「春光園(後に春光学園)」を創設することを決めたのだ。