餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態

知られざる「引揚孤児」のその後(1)
石井 光太 プロフィール

父親が家族を残して失踪

冒頭の樋口宅三郎は、横須賀にたどり着いた大勢の引揚孤児たちの救済に人生の多くを注いだ人物だ。まず、彼の引揚孤児たちとの出会いからはじめたい。

樋口は明治34年10月に宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)で生まれた。日々の暮らしは困窮しており、樋口が5歳の時、一家で岩手県釜石市へ移住した。父親は鉱山に職を得たものの、当時の厳しい労働環境に耐えられなかったのだろう、ある日突然姿を消してしまった。家族を残して、失踪したのである。

一家は、大黒柱を失ったことでより貧困にあえぐことになった。樋口は家族を支えるために若くして鉱山で働きはじめる。学業をまともに受けられなかった彼は、「早稲田中学講義録」を購入し、必死に独学をつづけた。いつか釜石の鉱山を離れ、都会で大きな仕事をしたいと思っていた。

 

その夢は18歳で実現することになる。樋口は叔父を頼って横須賀へ移り住み、地元紙である相模中央新聞に就職したのだ。彼は若い頃の勉強不足を百科事典を丸暗記することで補った。そうした努力のつみ重ねで、間もなく記者として頭角を現すようになる。そして29歳で横須賀日日新聞を創刊。さらには神奈川日日新聞(現・神奈川新聞)を創刊し、社長に就任した。

時を前後して、樋口は、財団法人である「横須賀隣人会」の設立にも携わった。横須賀隣人会は、大正12年に起きた関東大震災の後に活動を本格化させ、婦人授産事業、家庭副業奨励、託児事業などを地域住民への社会事業として行った。婦人授産場とは、生活に困窮している女性に仕事を与えることで自立を支援する施設であり、戦時中は海軍下士官の兵服縫製の仕事を受注することで大きく発展した。

そうした中、昭和20年8月15日の敗戦の日が訪れた。