餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態

知られざる「引揚孤児」のその後(1)
石井 光太 プロフィール

「引揚孤児」たちのその後

こうした帰還者たちは「引揚者」と呼ばれた(兵士は「復員兵」と呼ばれた)。日本には引揚者を受け入れる港が主な所だけで15ヵ所以上あり、横須賀の浦賀港は、博多港、佐世保港、舞鶴港につぐ4番目に多い56万4625人を受け入れていた。

引揚者といえば、一般的には中国の満州からの引揚を想起されることが多いだろう。だが、浦賀港はフィリピンやサイパンやパラオといった中部太平洋や南方諸地域島からの引揚が主だった。

フィリピンやサイパンでは、「玉砕」という名の"全滅作戦"が行われたことは知られているが、日本兵だけでなく、一般人である移民たちもまた戦火に巻き込まれていたことはあまり語られない。そして、農業、理髪業、雑貨業などを営むごく普通の日本人たちが、幼い子供共々戦争に巻き込まれて行ったのである。

 

冒頭で述べた子供たちは、中部太平洋や南方諸地域の激戦地で家族や親戚を失い、なんとか生き長らえた者たちだ。彼らはたった一人、あるいは幼いきょうだいとともに引揚船に乗り込み、日本に帰ってきた「引揚孤児」たちだったのである。

だが、その日本には、彼らを養ってくれる家族も親戚もいなかった。そういう子供たちが、引揚同胞一時収容所の片隅で餓死寸前の状態にまで追い込まれていたのである。

これまで私は『浮浪児1945‐戦争が生んだ子供たち』(新潮文庫)等で、敗戦後の浮浪児について記してきた。この短期集中連載では、知られざる「引揚孤児」のその後について述べたい。