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餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態

知られざる「引揚孤児」のその後(1)

骨に皮を被せたような子供たち

昭和20年、太平洋戦争が終結した後、神奈川県横須賀市の浦賀町にある木造の長屋のような建物には、大勢の身寄りのない子供が30人ほど、骨と皮ばかりの餓死寸前の体になって身を寄せ合っていた。

彼らの体は一様に皮膚病でただれたようになっていたが、薬一つつけてもらっていなかった。寒さからなのか、不安からなのか、震えて奥歯を鳴らしている者さえいる。手足は枯れ枝のように細く、一度すわり込めば立ち上がることもできず、声をかけられても何の反応も示さない。ただ、目の白い部分だけがぎょろりと光っているのである。

こうした子供たちの様子を、樋口宅三郎は次のように述べる。

 一人として栄養失調ならざるはなく、顔色は土色で、もうこの上は痩せたくても痩せられぬという状態にあった。羽根をむしりとられた裸の雀の子たちが、私の迎えた孤児たちの姿であった。中には頭髪がすっかり抜け落ちてしまった女の子さえあった。人間はここまで痩せ得るものか、ここまで痩せても、なお生きていられるものか、骨に皮を被せたような、そうした子供たちだったのである。(『人生の路地』)
 

この子供たちが収容されていた建物は、敗戦後につくられた「引揚同胞一時収容所(後の鴨居援護所)」だった。

戦前から戦中にかけて大勢の日本人が海を渡り、中国をはじめとした大陸の国々やフィリピンやパラオなどの島国に移り住んでいた。

駐留する日本兵相手のビジネスをしようとした者、田畑を切り拓いて農業をはじめようとした者、異国の地で新たな事業を起こそうとした者などが続々と集まっていたのだ。

だが、日本が戦争に負けたことで、彼らの運命は180度変わることになる。彼らは現地で集めた家財を投げ捨て、敗戦国民として追われる立場となり、ほとんど着の身着のままで船に乗って日本にもどってきたのである。