関係の深まる講談社と陸軍…突き付けられた言論統制のサーベル

大衆は神である(65)
魚住 昭 プロフィール

出版社を生かすも殺すも鈴木の胸三寸

この熱狂の最中に出版界の仕組みを根底から変える出来事が相次ぐ。

昭和15年12月、内閣情報部が情報局に改組された。情報局は、それまでの情報部の機能を強化するため、陸軍省、海軍省、外務省、内務省などの担当部局を統合して作られたもので、合計5部17課、要員550名からなる大組織である。

これと並行して、東京出版協会、日本雑誌協会が解散(同年8月)させられ、日本出版文化協会(文協)が作られた。文協は、情報局の下請け機関として用紙の配給権を握った。出版社は文協に発行届、企画書、用紙割当申請書などを提出し、許可がおりなければ出版物を出せなくなった。

文協は、強力な権限を握る官民一体の運営機関だった。理事の半数と、監事、評議員の全部は民間人だったが、出版物の内容審査に最も関係ある文化委員と、用紙配給に関係する業務委員には陸軍省、海軍省、内閣情報局、商工省等の役人が多数送り込まれた。

 

このとき、鈴木庫三は、情報官として情報局入りし、情報局第二部(新聞・雑誌出版物・放送報道に関する事項を所管)第二課の専任となって「雑誌其ノ他ノ出版物ノ指導」を担当した2と同時に、文協の文化委員にもなった。つまり、出版社を生かすも殺すも鈴木の胸三寸という事態になったのである。

ついでに述べておくと、翌昭和16年5月、東京堂など元取次4社と全国の中小取次が一斉に廃業させられ、出版物の配給を一手に担う日本出版配給株式会社(日配)が誕生した。日配は文協の指導監督下に置かれ、出版物の企画から配本まですべて文協―日配を通して行われることになった。これは、講談社―東京堂を軸にした出版流通システムの解体だった。

天田幸男が当時を回想する。

〈その(文協をつくるとき、中心になった出版界の)人たちと、それに荷担する人たちから見ますと、講談社というものは、出版業者のうちでその紙の七割までを使っているところの大きな会社だ。この会社の雑誌を一つつぶせば、他の社のものは何も削減しなくていいじゃないかという声もあったものですから、この際、講談社をいわばぶっつぶせというくらいの気持ちもあったように聞いております。(略)講談社の雑誌をつぶしてその紙をわれわれが使おうというのが(彼らの)根本の叫びなんです。そこにまた大政翼賛会が出版の統制にくちばしを入れてくる。そうかと思うと海軍の報道部が出てくるわけで、これ(翼賛会と海軍の意)が講談社にはよく当たってくれなかった。(略)結局、出版文化協会頼むに足らず、翼賛会頼むに足らず、海軍頼むに足らず、それで比較的に講談社がおんぶしていたところが陸軍なんですね〉

ところが、昭和15年初秋、頼みの綱の陸軍を怒らせる出来事が起きる。